第1240回 退行していく社会の行く末。

ちょうど「愛国」ということを考えていた時に、安倍元首相が銃撃されたというニュースが飛び込んできた。

 アメリカやインドではなく、現代の平和ボケと言われるこの日本で、選挙運動中にこういう事件が起きるなどと、いったい誰が想像できただろう。

 15年以上前か、永田町に風の旅人の編集部があった時、上の階に政治経済研究会という政治家による勉強会の場があり、エレベータが同じだった。

 ランチを終えてビルに戻ってきた時、エレベーターが閉まる直前だったので、小走りでエレベータに駆け込んだところ、中に白いブレザーを着た安倍元首相がいて、両隣のSPらしき人物が、突然飛び込んできた私に対して警戒心露わに身構えた。私はすぐに、怪しいものではないと示すために背中を向けた。

 今回の安倍元首相への狙撃は、3m背後という至近距離からのようだが、なぜそんなことができたのか?

 太平洋戦争前、1936年の2.26事件、1932年の5.15事件より先の1930年、濱口雄幸首相が、東京駅で右翼の人物に狙撃された。

 1931年の満州事変の勃発までは、反軍運動や反戦運動が行われていたが、1932年の5.15事件あたりから、軍部の暴力を恐れ、その圧力に負けた政治家が保身に走るようになった。

 濱口首相と、安倍元首相は、似たような状況下で政策運営を行った。

 関東大震災と東北大震災という大災害、そして長期におよぶデフレと不況。

 この二人の首相が経済対策で行ったのは、まったく正反対の手法なのだが、目指すところは同じだった。

 濱口首相は金本位制による緊縮財政、安倍元首相は、桁外れの財政出動による自由競争化を行ったが、ともに、競争力のないものを淘汰し、企業に国際競争力が生まれれば経済不況から脱出できるというビジョンだった。生産性の悪い人や企業を切り捨て、延命だけしている企業などが整理されることで、日本は安定成長することができる体質に生まれ変わるのだという考えに基づいていた。

 しかし、濱口首相の判断と実践は、世界恐慌によって、むしろ悪手となってしまった。

 多大な犠牲をはらって日本企業の国際競争力を高めても、世界恐慌のため、世界中で物が売れなくなってしまったのだ。

 この20年の日本も、自由化の旗印のもと、多大なる犠牲をはらって産業競争力をつけるための手が打たれてきた。

 しかし、コロナウィルスの世界中の蔓延や、ロシア・ウクライナの長引く戦争など、90年前の世界大恐慌と似たような状況にある。

 生産性を高めるために整理されたり、いつでも整理できるような非正規で低賃金という不安定な環境に置かれた人々が膨大に存在しており、長引くデフレは、むしろそういった境遇の人にとっては延命の綱だったが、最近、エネルギー価格の高騰によって、その状況も変わってきた。

 陰で、得体の知れない不安に怯え、不満をぶつける矛先を探し、失うものは何もないと捨て鉢になっている人も、かなり存在するかもしれない。

 80年前の戦争は、経済悪化による人々の不満や不安によって、少しずつ準備され、強権によってその状態を一挙に打開しようとした軍部が、少しずつ支持を高め、さらに暴走していくことになった。

 国民とは無関係のところで、かってに戦争が進められていったということではない。

 進行中の歴史のなかで生きている人間が、その時起こっていることの意味を理解できないのは、古今東西同じだ。

 とりわけ現在は、歴史を後から振り返っても不吉すぎる状況が重なっているのだけれど、深刻なニュースの後に、馬鹿笑いの番組が続き、目先の欲求を刺激するコマーシャルや通販番組の類が、テレビだけでなく、あらゆる情報媒体に溢れているため、自分が生きている現実のシリアスさが、いまひとつピンとこない人は大勢いる。

 しかし、社会や学校や職場などでないがしろにされ、暗い恨みを抱え込んで篭っている人たちの中には、もしかしたら今回の安倍元首相が自家製の銃で殺害されたという事件に、陰湿な復讐の思いを具現化する術を見出した人がいるかもしれない。

 数年前、3Dプリンターで銃の製造が可能で、その方法がネットに流出しているという話に触れ、時代の変化に驚いたが、その変化は、ネット空間だけでなく現実世界のものになりつつある。

 こうした事件は、一人の殺害者、一人の犠牲者で終わるものではなく、必ず、別の事態を引き起こしてきた。溢れかえる情報ニュースによって鈍麻させられていると、それらのつながりは見失われるが、一つのことに思いを集中させている人には、一つの事件が大きな啓示になる。

 今回、安倍元首相を銃撃したのは、40代の男だという。

 インターネットなどで中傷記事をしつこく続けて逮捕されたというニュースで、その犯人が、20代とかではなく40代で、意外と歳をとっているんだと不思議な感覚になることが、たまにあった。

 以前であれば、こうした過激な行動は、若い世代が行うものだという印象があった。社会に対する不満は若い人の方が持ちやすく、年齢を重ねるうちに順応したり、自分の無力を知って、しかたないと諦めていったり。

 40代というのは、昔ならば、おっさんなんだが、今回の事件でSPに取り押さえられている人物の雰囲気もそうだが、おっさんというより、20代のまま年月を重ねているように見える。

 それはまるで、「失われた20年」などとよく言われているように、この期間の日本社会の時間が止まっていることを象徴している。

 生命にとって時間が止まることは、生きていない、もしくは成熟していかないということだ。

 ロシアとウクライナの戦争によるエネルギー危機で、節電を呼びかけながら、同時に、熱中症対策のためにエアコンを惜しまず活用しようとテレビで呼びかけられる。さらに、就寝時には枕元に常温の水を用意すること、などと、良識ある大人に対して子供向けの注意喚起を行っている。

 同時に、ウクライナでの激しい戦闘や死者や負傷者のことを伝えられているので、安心安全に関する神経が麻痺してくる。

 結局、自分ごとになるのは、目先の熱中症対策や、コロナ感染への過剰な備えであり、本質的な危機、本当の危機への意識は、遠ざかっていくのだ。

 社会は、高度経済成長期から成熟期に移行していかなければならないのに、成熟どころか退行しているようにも感じられる。

 現在の日本の知識人や文化人の多くは、太平洋戦争のトラウマからか、日本を愛するというスタンスから距離を置き、西欧文化の方を上位に位置付ける傾向にあるが、その結果、寄る辺をなくした日本人の心は少しずつ空虚になっていき、その空虚が、暴力を引き起こす。

 国を愛するということから目を背けるのではなく、国を愛するということを国家主義に直結させないために、どういうことが必要なのか?を考えるべきなのに。

 自分の足元や、今ある自分へとつながっている歴史文化などを丁寧に見つめ直し、今ある自分を再確認し、誰かから強制されるのではなく、自分の心で感じ、自分の頭で考え、自分の言葉で語り、自分の方法で伝える術を身につけていくことが大事で、それが真の意味で、自分や自分がいる世界を尊重し、愛することにつながる。そうした道案内をできる人こそが、知のエキスパートであるはずなのに、メディアに登場する「知の専門家」とされる人たちは、馬鹿丁寧な危険回避のアドバイスを、繰り返し国民に刷り込み、その結果、自分の頭で考えないロボットを作り出していくことを仕事としている。

 刷り込まれた考えと、自分の頭で考えたことの区別がつかなくなる状態が一番怖い。

 危険回避の対象が、コロナや熱中症から他の何かにすり替えられても、気づかなくなってしまう。

 このたびの事件を受けて、参院選自民党が圧勝するようなこととなれば、危機回避という大義名分で、人々の声や行動に縛りがつけられる可能性が高いし、憲法改正も現実化を増してくる。

 1930年当時、その15年後に、広島と長崎に原爆が落とされることを想像できた人は、一人もいなかっただろう。

 

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