第950回 自分ではどうにもならない困難と、自分で何とかするしかない課題

 


 この世界には、自分ではどうにもならない困難と、自分で何とかするしかない課題がある。長い人生で、ずっと順風満帆に行くことはありえず、どこかで間違いなく苦しい困難に遭遇する。自分で何とかするしかない課題の場合は、自分を鼓舞したり気分転換をはかったり、どこかにいい智恵がないかと一生懸命に探したり、とにかくやれることは何でもやるしかないし、そういう必死の努力ができるかどうかで、その課題を乗り越えられるかどうか決まってくる。
 しかし、自分の努力の範疇の外にあって、自分ではどうにもならない困難は、何とかしたくても、何ともならない。そうした困難でも、終わる時がくることを知っていれば、心の苦痛は軽減する。しかし、多くの場合、その渦中にあるあいだは、その辛さが永遠に続くかのように感じてしまう。だから、辛さに打ちのめされて自暴自棄になったり無気力になったり、それまで普通にできていた自己管理もできなくなり、健康を損なったり、心が蝕まれたりする。その結果、当初は1つであった困難が次々と膨れあがってしまう。
 自分ではどうにもならない困難に遭遇した時、その1つの困難で止めることができず、連鎖的に他に悪循環が及ぶかどうかは、自分次第ということも多い。
 とはいえ、悪い状況が起こった時に、その悲しみや苦しみに囚われてしまい、よりいっそう悪い流れを作りやすいのが人間だ。賭け事でも、少し負けた時に辞めてしまえばいいのに、負けを取り戻そうとムキになってさらに負けを膨らませ、途中から自棄になって一発勝負で取り戻そうとして途方もない負け方になることはよくある。
 また、悲しいことがあると、悲しさを忘れようとして酔いつぶれてしまい、翌日、さらに悲しみが増し、その悲しみを忘れようと酒量を増やして、しまいには身体を壊してしまい、人生も壊してしまうこともよくある。
 特に日本人は、情にもろいというのか、個人での対応に慣れていないというのか、酒を飲むにしても、独りでしみじみと楽しみを味わったり苦しみを噛みしめながら飲むのではなく、楽しむためにはみんなで宴会騒ぎ、苦しい時もみんなで憂さ晴らしで大騒ぎ、でないといけないかのような空気がある。
 楽しい時は、みんなではしゃがなければならないし、苦しい時は、みんなで乗り切らなければならないのだ。どちらであれ、大きな”騒ぎ”になる。
 太平洋戦争にしても、始めてしまったものは、今さらその是非を論じても仕方がない。ただ、ガダルカナル島ミッドウェー海戦で負けた時に止めておれば、あんなに悲惨なことにはならなかった。敗戦するにしても出来るだけ良い条件を引き出したいから、という小心ものの往生際の悪さによって、終戦前の半年で、それまでの数年の何倍もの被害へと拡大させることになってしまった。
 この歴史的教訓を、常に頭に置いておく必要がある。
 原発の場合も、数十年前は、多くの人が夢のエネルギーだと信じていたのだから、やり始めたことに対して今さらその是非を論じても仕方がない。しかし、2011年の福島の原発事故は、もしかしたらガダルカナル島ミッドウェイ海戦の敗戦に等しいのではないかと、思いをめぐらす冷静さは必要だろう。
 にもかかわらず、このタイミングで、頭に血が上っている安倍政権は「1億総活躍社会の実現」ということを言い始めた。このたびの九州の地震も、「オールジャパンで支える」と言う。安倍首相の話しぶりの特徴は、視線は原稿を丸読みだけれど、ポーズとか語尾の断言口調だけで”勇壮さ”を誇示するところであり、太平洋戦争末期の日本の幹部も、こんな感じだったのではないかと思わざるを得ない。
 状況はよく似ている。
 ガダルカナルやミッドウェイの戦いに敗れた時に、東京空襲や原爆のことを予測できなかったから突き進んだように、福島原発事故の後でさえ、伊方や川内の原発の事故が起こりうる根拠を特定できないという理由で、このまま突き進むのだろうか。
 先のことを完全に予測することは不可能でも、”置かれている状況の悪さ、その先の不吉さ”は、察知できるはずだ。
 政治的判断というのは、その先の不吉さに対して手を打つことであり、歴史に残っている名将は、その判断と決断ができた人物たちだ。
 「原子力規制委員会という専門家が、原発を止める科学的根拠がないと言っているから、それに従うだけ」というのは、もはや政治ではない。それは、太平洋の制空権を完全に失った後でも、まだ負けると決まったわけではないと言っているようなものだ。科学的予測ではなく、不吉さに基づく行動の方がどれだけ大事なことか。
 原子力規制委員会は、「基準の整合性は見ていますけれど、安全であるとは私は申し上げていない。」と言っている。つまり、不吉さはあるということだ。

 自分ではどうにもならない困難に巻き込まれて悲しみに打ちひしがれている時、それまできちんと行っていたことができなくなる。人間である限り、それは仕方が無いことだと思うが、しばらく続いた時に、このままこういう状態が続くとマズイのではないかと自分の先行きに対して不吉を感じること。不吉を感じたら、すぐに意識を切り替えること。
 おそらく、人生において自分の力で何とかするべきことというのは、こうした切り替えなのだ。誰も前もって何が起こるか完全に知ることなどできない。読みが外れることは何度でもある。そうして痛い目に遭ったら、不吉に対して敏感になる。不吉には科学的根拠などない。不吉を感じているのに、科学的根拠を持ち出してその不吉を打ち消そうとすることが、悪循環を招く。
 そして、不吉を感じていたくせに強行して、より悲惨な状況になってしまったら、「想定外だった」と言う。指導的立場にありながら、「想定外だった」という言葉を簡単に口にするような輩は、最初から指導者の資質がなかったということだろう。

 日本が今陥っている経済的に困難な状況は、誰のせいでもない。多くの発展途上国から富を奪うことで限られた先進国が豊かさを享受できた時代は終わったのだ。ベトナムや中国だけでなく、アフリカやアジアをはじめ、さらに多くの諸国が経済発展をしていけば、相対的に、日本の経済は苦しくなっていって当然だ。それに抗うことが、自分で何とかするしかない課題だと思っている人が多いが、限界があると思う。
 自分で何とかするしかない課題というのは、流れに抗うことではなく、その先に不吉を感じるのであれば素直に限界を認めたうえで意識を切り替え、謙虚な生き方の価値感を構築していくことではないか。
 地震や台風など、自分ではどうにもならない困難を数多く経験してきた筈の日本人は、科学的証拠よりも、不吉をベースにした智恵と、備えと、素直さや謙虚さを身に付けてきた筈なのだ。
 人生は限られている。人は誰でも死ぬことが決められている。どんなに最新の高額医療を受けたところで寿命は少し延びるかもしれないけれど永遠の命は得られないし、タックスヘブンを利用して莫大なお金を隠しても使い切れない。
 だから、命やお金をどう使うかは、畢竟、価値感の問題であり、その価値感は、ともすれば世間の風向きに左右されがちであるが、自分次第なのだと思う。敗戦するくらいなら自決、というのも1つの価値感。原発事故を見て見ぬふりをして派手な消費生活を続けるのも1つの価値感。火星に移住したいと思うのも、人類の夢なんかではなく、1つの価値感にすぎない。(私はまっぴらゴメン。火星よりもサハラ砂漠の方が遙かにマシ)。また、自分で手に負えない困難に遭遇した瞬間、自分の人生はもう終わりだと自暴自棄になるのも、人の営みとはそういうものと腹をくくるのも、究極において、価値感によるところが大きい。
 当たり前のように自分に染みついている価値感をいったん洗い流してみることは、簡単ではないけれど、今、自分で何とかしなければならない課題だという気がする。その課題に向き合わないと、自分が陥っている困難が1つではなく、連鎖反応のように、どんどんと膨れあがってしまう恐れがある。個人でもそうだし、社会もそうだ。歴史的にも、経済問題が戦争へとつながっていったことが何度でもある。教訓というのは、知識の獲得ではなく、不吉な感覚を身に付けることだ。





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