第1278回 In all chaos there is a cosmos,in all disorder a secret order.

4年前に私が撮ったピンホール写真。

(最近、井津建郎さんが撮った写真)

 

 井津建郎さんにも許可をいただいて、井津さんが撮った写真と、私が撮ったピンホール写真を並べてアップしました。

 ここにアップしている2枚の写真は、奈良の柳生の天石立神社ですが、メインの巨岩がある場所ではなく、その聖域への途中道です。

 私は、4年くらい前、天石立神社に行った時に、この前を通りすぎる時、何かに呼ばれるように三脚をセットして撮影しました。でも、この写真は、これまで出した2冊の本の中ではまだ紹介していませず、巨岩が真っ二つに割れた聖域の写真は、2年半前に発行済のSacred world 1で、紹介しました。

 

Sacred world vol.1で掲載した天石立神社の一刀石。中央付近で斜め一直線に割れ目は、上泉信綱と勝負して敗れた石舟斎宗厳が3年間この地で毎夜天狗を相手に剣術修行をし、ある夜一刀のもとに天狗を切ったと思えば実はこの岩であったと伝わる。宗厳はこの修行で無刀の極意を悟り、柳生新陰流の始祖となったという。

 

 不思議なことに、井津さんが撮った写真を見ると、私とまったく同じ場所に三脚をセットして撮影していることがわかります。私は6×9の横幅のブローニーフィルムを使って、レンズ無しのピンホールカメラで撮影しているので、写っている範囲や雰囲気は異なりますが、まったく同じ場所です。レンズの存在を抜きに判断すると、光の状態や向きも、ほとんど同じだから、時刻も同じような感じがする。しかも、4年の月日が経っているのに、植生がほとんど変わっていない。

 まるで時が静止したかのよう。

 最初、井津さんの写真を見た瞬間は、井津さんが同じ場所で撮影したということはすぐにわかりましたが、丁寧に確認すると、大きな木と石の位置関係から、井津さんと私が、通り道のようなところで、完璧に同じところにカメラをセットしていることがわかります。

 私はピンホールカメラなのでノーファインダーで、だいたいの雰囲気で撮影しています。

 井津さんは、おそらくファインダーを覗いてはいると思いますが、じっくりと見つめて、厳密を構図を決めて撮ったのかどうかは、わかりません。

 ただ、井津さんは、ゾクゾクするようなものを感じて、この聖域に三日間も通い続けたそうです。周辺には笠置寺の巨岩群とか、被写体になりそうなところは、いくらでもあるのに、それらのところは、訪問すらしなかったというのですが、それもまた、凄いなあと思います。よほど、この場所に、井津さんを呼び寄せる吸引力があったのでしょう。

 井津さんは、何十年もアメリカで活動してきて、つい最近、日本に移住し(帰国?)し、「もののあはれ」のプロジェクトを続けています。 

 不思議なのは、私が、この「Sacred world 日本の古層」のプロジェクトを始めることになった起点も、2015年10月に発行した風の旅人第50号の巻末で、次号の告知として、「もののあはれ」としたことです。

 「もののあはれ」のテーマ設定は、2011年の東北大震災の後に発行してきた風の旅人の一連のテーマ、「修羅」からはじまり、「コドモノクニ」、「妣(はは)の国へ」、「死の力」、「いのちの文(あや)」、「時の文〜不易流行」と続けてきたなかでの、必然的なものでした。

 3.11の大震災の衝撃を受けて、これをきっかけに、日本が近代化によって見失ってしまったものを取り戻さなければ、この大震災は、歴史的にただの悲劇で片付けられてしまうという思いが強かったからです。

 しかし、そういう思いで、いざ真剣に「もののあはれ」をテーマに編集しようとしても、世の中で一般的に認識されているような、侘びとか寂びとか、日本庭園とか、茶道とか、そういうものを並べたところで、形式的もしくは趣味的にすぎて、本質的な「もののあはれ」とは遠いと感じました。ならば、どうすればいいのかと考えあぐねて、いろいろな人の本を読んだり、いろいろな写真を見ても、どうにもピンと来ず、それで、自分の感覚で、手探りしながら「もののあはれ」の源流を手繰り寄せようと思って、風の旅人の51号は作らず、自分自身のプロジェクトを始めたのです。

 そして、その方法として、自分が抱いているイメージにそったものとして、ピンホールカメラが相応しいと気づいたのは、それから1年ほど経った時で、2016年10月から日本全国で、古くから大切にされている場所の撮影を始めて、その場所を訪れた感覚をもとに、古代史を紐解き、文章の形にして、どんどんと深みにはまっていて、おそらく一生かけても終わらないだろうと思っています。

 もし2015年前の時点で、井津さんが、現在行っている「もののあはれ」のプロジェクトの写真(能面や野の花などから、古代の聖域)に出会っていれば、これは間違いなく、私が抱いている「もののあはれ」のイメージなので、これを軸にして、風の旅人の51号を作っていたでしょう。

 しかし、井津さんが、その時点ではこのプロジェクトに取り組んでいなかったため、私は、私の方法で、日本の古層=もののあはれを探求をすることになりました。

 ただ、この数年、井津さんのアンテナと、私のアンテナは、時々、重なり合うところがあり、たとえば、数年前、井津さんが、まだ明確に「もののあはれ」を意識していない時に、縁あって丹波篠山に能面の撮影に通っていた頃、その写真を見せてもらい、私は、ピンときて京都の能楽師の河村晴久さんを紹介しました。そして、井津さんは、河村さんのところに通い、河村さんが所有する数多くの能面だけでなく、河村さんが能を演じる姿なども撮影し、井津さんの心の中の種が少しずつ育っていき、さらに、コロナ禍で、あまり外に出られないこともあって家の周りの野花などを撮るようになり、井津さんにとっての「もののあはれ」の輪郭が整っていきました。そのプロセスを、その都度、写真で見せてもらいました。

 それで、最近は、移住先の金沢から奈良に通っていると聞いてはいたものの、何を撮っているのかは知りませんでした。今日、はじめて、その「奈良」の写真がフェイスブックで紹介されているのを見てびっくり。一番最初に目に飛び込んできたのは、私が三脚を立てた通り道の場所で、1mもズレないところで、井津さんが撮った写真だったからです。奈良市内ではなく、やはり、その周縁世界の奥底に潜入していたことがわかりましたが、感性が似ているという程度ではない、なにか波動の共振みたいなものを感じたわけです。

 井津さんは、私の作っている「Sacred world」を3冊とも買ってくれましたが、私はこの写真を、それらの本に入れていなかったですし。

 それにしても、4年の月日を経て、植生は、ほとんど変わっていないというのは、どういうことなのか。巨石のまわりの雑草とかは、毎年、風景を大きく変化させるはずなのに。

 人の管理が入っている聖域なら、まだわかりますが、通りすがりの、人が入り込みにくい場所で、そういうことは、珍しい。

 この二つの写真を並べてみると、4年の歳月をまったく感じられないけれど、数百年、もしかしたら1千年を超えても、大きく変わっていないのかもしれない、と思ったりします。

 迷信じみたことを言うつもりはないのだけれど、ここ10年、こういったシンクロニシティは、よく起こります。

 シンクロニシティは、カール・ユングが提唱した概念で、「意味のある偶然の一致」を指します。

 深層心理の探求者として知られるフロイトユングですが、フロイトが、無意識を個人の意識に抑圧されたものとして捉えたのに対して、ユングは、個人の無意識の奥底に人類共通の集合的無意識が存在していると考えていました。

 ユングは、世界各地の神話・伝承ともつながる集合的無意識を、全ての人間が共有していると考え、だからといって、人間がその集合的無意識に固定的に永久に縛られてしまうわけではなく、無意識と意識の調停作業を通した変化の可能性を秘めているとし、だからこそ、心の治療も可能であるという信念を持っていました。 

 ユングの言葉、In all chaos there is a cosmos,in all disorder a secret order.という一文の中の、secret orderこそ、古くから、表現者が探求してきたことでした。

 そして、そのsecret orderに通じる何かを予感させるものが、創造であり、美だったはず。

 無秩序を、無秩序のまま垂れ流すことを表現とかアートだと言うようになったのは、

生産と廃棄のサイクルを早めることを社会の活性だとみなす消費社会が作り出した思考特性によるものであり、人類史の中では、かつて、「詭弁家」とか「ソフィスト」が、跋扈していた時代と同じ。

 つまりそれは、「万物の尺度は人間にある」というプロタゴラスの言葉に象徴されるように、「個々の人間の知覚こそ、真理の基準である」、つまり、人類にとって普遍のsecred orderなど存在しないという自己正当化の思想の産物ということになるでしょう。

 果たして、本当にそうなのか?

 必然のように感じられることも、ただの偶然の一致なのか?

 人間は、すべて自分の自己意識で、行動し、制御し、結果を作り出していると言い切れるのかどうか。

 ユングの探求は、個別現象の徹底的分析というやり方が正当となっている20世紀型の科学と逆行していると批判されることもあり、「オカルティズム」と扱われることもありました。

 確かに、20世紀においては、そう処理される傾向が強かったけれど、そうした20世紀的な特性が、本当に万能と言えるかどうか、疑わしいことは、無数にあるのではないでしょうか。

最近、いろいろな会で、法螺貝を吹くことがあります。

 1ヶ月前に行ったスタンフォードの学生向けの講義でも吹いたし、3日前の、結婚披露パーティでも、乾杯の音頭をとる前に吹きました。

 法螺貝を吹くことは、音楽の演奏ではなく、波動を送ることだと思う。上手いとか下手という分別はない。だから、とくに萎縮することなく、講義の中や、パーティで吹いている。

 しかし、それは、自己パフォーマンスのように、自分に注目してもらいたいからではない。

 法螺貝を吹く時は、その場の必然として、それを行っても大丈夫かどうかだけは、気にします。

 場の空気というのが、とても重要だから。

 法螺貝は、たとえば、滝の音がゴーゴーと鳴り響く場所でも激流の川のそばでも、吹き鳴らすことに何の違和感もなく、他の楽器のように自然の音に掻き消されてしまうという感覚もなく、むしろ、自然音と重なって増幅して、よりいっそう気持ちの良い空間になったりする。

 それに対して、やったことがないけれど、タワーマンションのロビーで吹けば、とても違和感があるかもしれない。

 法螺貝の音の根本原理は、波動の共振だと思います。

 つまり、個体としての存在感ではなく、関係性の賜物。そして森羅万象は、何一つ、単独で存在しているものなんかない。

 コウモリは、人間の耳では聞き取れない音波を発して、その跳ね返りをキャッチして、物の存在を認識することができます。

 実は人間も、耳では聞き取れない波動を発していていて、それが何かにあたって跳ね返っているのだけれど、その一連の運動に、敏感な人と、鈍感な人がいるのかもしれない。

 上に述べたスタンフォード大学の学生の時も、交わされる言葉の背後に波動のようなものが行き交っているような感覚を覚える濃厚な3時間でした。だから、法螺貝の波動は、なんの違和感もなく広がり、学生たちも、その瞬間だけ、時間が停止したように没入していたと思います。

 波長が合うという程度ではなく、波動が響き合うという関係性においてはじめて、共同で創造的な仕事ができる、ということを、これまでの経験から私は、実感しています。

 シンクロニシティを、ただの偶然と片付けることも自由ですが、そこに何かあるとリアルに感じる人は、そのリアルに対して素直に、誠実に、対応する。おろそかにすると罰が当たると感じるのは、不埒な対応が、自然の流れを澱ませたり歪ませたりするような感覚を伴うからでしょう。

 人類にとって普遍のsecred orderなど存在するとかしないという議論の中で、自己の優位性や有能性を保ちたいがために論証合戦を繰り広げることほど虚しいものはない。

 論証など、終わったことへの結論でしかなく、論証が、これから起こることに結びつくと思っているのは、大いなる錯誤。

 これから起こることに結びつくのは、たいていの場合、論証ではなく、予感。

 その予感って、いったいどこからきているのか、論証することより、その予感の糸をたどっていった方が、新しい局面が開かれていく可能性が高い。

 

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ピンホール写真で旅する日本の聖域。

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