第1259回 海人と水銀ネットワークの関係

轟九十九滝(徳島県海部郡海陽町

 観光旅行と旅の違いは、前者が「点」の訪問であるのに対して、後者は「線」の移動であることだ。

 「点」の訪問の場合、自分の現実世界と訪問地が二項対立の関係になるが、「線」の移動は、自分の現実世界と各訪問先が、一つながりになってくる。

 旅は、印象に残る場所を訪れた時、それが楽しい思い出になるだけで終わらず、その場所と他の場所との関係が気にかかり、さらに現在との関係が気にかかり、次の旅へと自分を動かす。

 ところで、一つの場所から次の場所を目指す時、四国での移動ルートは、事前によく検討した方がいい。

 例えば四国南端の室戸岬から、内陸部の神山町への移動の場合、最短ルートは「酷道」193号線だが、たとえ距離が遠くなろうとも、四国東の海岸線を通り、吉野川河口域の沖積平野から内陸部に入った方が楽で安全だ。また西の剣山側から神山町を目指す「酷道」439号線もまた、想像を絶する酷い道のりとなる。

 つまり、近年、自然の真っ只中でもwifiが繋がるということでIT企業などを誘致して話題となった徳島県神山町は、北と東には開かれているが、南と西は、非常に行き来がしにくい場所ということになる。

 今回の四国の旅で、私は、阿南と室戸のあいだにある海部という地名と、剣山系の山々を源流とする海部川という名に引かれて、海部川の上流部にある轟の滝を目指してしまったため、次の予定地である神山への行程が、酷道193号線を通ることになってしまった。

 この道は、霧越峠を超えていくのだが、この名のとおり、下界では晴れていても小雨が降ったり深い霧に覆われる場所で、私の移動時もそうだった。

 海部川上流部の山岳地帯は、年間降雨量3,000ミリに達する全国有数の多雨地域であり、しかも、渓谷沿いの道でブラインドカーブが多く、狭隘で、ガードレールが無い区間も多い。さらに山側は剥き出しの岩がせり出しており、落石・倒木の危険性も大きい。

 対向車が来たら、どちらかがバックして、少しでも幅広のところに移動しなければならないが、そこまでの距離が遠いし、しかも曲がりくねってガードレールもないし、霧で後ろがまったく見えないので、私自身は、恐ろしくてバックはできない。幸いにというか信じられないことに、50kmを超える長距離を走っているあいだ、一台も対向車がなかった。

 この酷い国道は、時間40mmもしくは連続100mm以上の雨量を記録すると通行止めになるらしく、この日の天気予報は雨だったので、地元の人は当然ながら誰もこの道を走らなかったし、有名な観光地でもないから、他地域からは誰もこなかったからだ。

 落石の直撃を受けたら終わりだし、行政が知る前にどこかで落石があって通行不可能になっていたら、そこまで行って気がついても、霧の中、ガードレールのない狭い道を、方向転換のできるところまで車をバックさせるのは至難の技だ。

 そんな非常事態のなか、途中、落石が車体の下に引っかかって動かなくなった時には顔が引きつった。車から降りて大きな石を取り除こうとしてもビクともしない。しかたなくアクセルを強く踏んで馬力で脱出したが、石がマフラーに直撃して、マフラーがおかしくなった。しかし、走行には支障がなかった。でも、こんなところで故障したら JAFも来られないだろうと超不安な心理状態でトロトロ走っていると日が落ちてしまい、真っ暗闇と霧の中という二重苦で、あちら側を彷徨っているような気分だった。

 しかし、車にとって最悪の道の下の渓谷は、かつては重要な交通路だった。

 昔は、高瀬舟が行き交い、様々な物質を運んでいたのだが、とくに那珂川の上流でもある木頭という場所からは、茶、和紙、木材等が下流の海部地域へと運ばれていた。

 木頭は、今では日本で唯一、古代布の太布の製造技法が伝えられている場所で、太布は、和紙の原料でもあるコウゾの樹皮から糸をつむいだ布である。

 また、開発などの俗化を免れた海部川水系は、日本の河川では珍しくダムがなく、今でも清冽な水が流れており、環境省の調査で、全国で最も水がきれいな川36本の1つとの認定を受けている。豊かな植生を誇り、天然のヒラテナガエビ、鮎、アメゴ、ウナギなどの水生生物の宝庫でもある。

 この海部川を遡って、太平洋から山間部の木頭へと高瀬舟で移動すると、木頭から東は、那賀川で阿南へと至る。途中、丹生谷という場所があり、さらに下ると、弥生時代の辰砂(硫化水銀)の採掘遺跡が発見された若杉山である。そして阿南まで行くと、対岸は和歌山で、吉野川沖積平野とも近い。

 徳島県那珂川流域は、古代、辰砂生産の一大拠点であったことは間違いない。そして、海部川の上流部、このたび私が訪れた轟九十九滝は、神霊の坐すところとして現在に至るまで信仰されているが、豊臣秀吉朝鮮出兵の時、徳島藩の藩祖である蜂須賀家政が、海上安全を祈願した場所とも伝えられている。

轟九十九滝(徳島県海部郡海陽町

 そして、ここに鎮座する轟神社の祭神は、ミズハノメだ。ミズハノメは、水の神様と説明されることが多いが、吉野の丹生川上神社の祭神がミズハノメであり、この神社は、社伝によれば、神武天皇の東征の際に天神の教示により天神地祇を祀り戦勝を占った地であるが、その占いによって、丹(辰砂)の鉱脈の存在を知ったとあるように、辰砂と関係が深いのではないかと思う。

 また、上に述べた木頭は、古代から林業、太布、和紙などを生産する山中深い場所で、ここに鎮座する宇奈為神社は、平安時代に遡る古社だが、宇奈為(うない)は海居のこと。祭神は、豊玉彦命豊玉姫命玉依姫命の海神である。

 そもそも、海部という名前は、古代海人と関わりが深い。丹後、尾張、大分など、全国の海人の拠点にその名が残っており、だからこそ、私は、室戸から神山町に向かう道として、海部川沿いの酷道を選んだ。

 この徳島南部でも、海人は、あきらかに丹生(硫化水銀)とつながっている。

 そして、10代の時に四国の山岳地帯で修行をした空海と水銀のエピソードは多いが、高野山奥の院は、水銀鉱床の上であり、空海は、この高野山の領地を、麓の丹生都比売神社から譲られたことになっている。

 丹生都比売神社の第一殿には丹生都比売が祀られているが、第三殿には、オオゲツヒメが祀られている。

 オオゲツヒメは、前回のエントリーでも書いたが、神山町上一宮大粟神社の祭神である。

 オオゲツヒメは、イザナギイザナミの国産みで産み出される古い神だが、ずっと後から産み出されたスサノオによって、殺されてバラバラにされてしまう。

 このオオゲツヒメは、縄文時代の辰砂の精製場所であり弥生時代の銅鐸祭祀と関わりの深い矢野遺跡の近くに鎮座する八倉比売神社(徳島市国府町)の祭神、八倉比売と同一とされるが、さらに、天津羽羽神とも同一とされる。

 天津羽羽神を祭神とするところは数少ないが、白村江の戦いの前に斉明天皇が築いたとされる朝倉宮の候補地である朝倉神社(高知市)の祭神がそうであり、さらに神津島阿波命神社の祭神、阿波咩命がその別名とされる。

 阿波というのは、古代徳島のことでもあるが、神津島は、古代、黒曜石の産地であり、この石で作られた石器が日本各地に流通していた。

 その流通には、当然ながら海人が関わっていたはずであり、徳島の海人とのつながりが想像できる。

 しかし、話はそう単純でもなく、徳島の神山町上一宮大粟神社の社伝によれば、オオゲツヒメは、伊勢国丹生の郷(現 三重県多気多気町丹生)から馬に乗って阿波国に来て、この地に粟を広めたという。

 伊勢の多気は、奈良の吉野と徳島の若杉山とともに辰砂(硫化水銀)の重要生産地だった。

 オオゲツヒメが、辰砂と関わりの深い神であることを、神山町上一宮大粟神社の社伝は暗示している。

 興味深いことに、地図で確認すると、伊勢の多気町と、吉野の丹生川上神社と、丹生都比売神社・高野山のあいだを結んだラインの延長上が、神山町上一宮大粟神社である。

東から、伊勢の多気、吉野の丹生川上神社高野山と丹生都比売神社、オオゲツヒメを祀る上一宮大粟神社徳島県神山町)。 南からは、室戸岬海部川の河口、そして、山中に入り、轟の滝、那珂川沿いの木頭の宇奈為神社(祭神は、豊玉彦命豊玉姫命玉依姫命の海神)。その東の紫のマークは、那珂川沿いの丹生谷で、近くに、若杉山の辰砂(丹=硫化水銀)の古代採掘場所がある。

 伊勢、吉野、高野山は、中央構造線上にそった辰砂の鉱脈なので直線に並んでいることは不思議ではない(とはいえ鉱脈は幅があるので、神社の位置は計画的である可能性が高い)が、神山町上一宮大粟神社は、辰砂の鉱脈地帯のやや北であり、この地図では、神山町の南を流れる那珂川沿いの紫色のマークが、丹生谷であり、辰砂鉱山の若杉山もここから近い。

 私が車でトロトロと走った「酷道193号線」の絶壁の下は、古代、高瀬舟が行き交う交通の要路だった。

 日本は山に覆われており、山の道を行くことは困難を極めるが、河川が網の目のように行き渡っており、その水路を使えば、山の奥深くと海が割と簡単につながる。海人の活躍の舞台はそこにあった。

 そして、古代の文献によれば、海人は、どうやら辰砂の朱で身体にイレズミを施していた。魔除けの意味もあったのだろうか。実用的な面では、防腐剤、防水剤となる辰砂は、船作りにおいても有用だった。さらにその辰砂の採掘場所を知っていることは、後の時代、辰砂が金などの精錬やメッキにおいても重要な役割を果たすようになり、中央の権力者と海人が結びつく理由ともなっただろう。なによりも、大陸との交易や戦争で、船と船乗りの存在は必要不可欠のものだった。

 神話の中で、天孫降臨のニニギがコノハナサクヤヒメ(阿多隼人という海人の女神)と結ばれ、その子の山幸彦が、海神の娘、豊玉姫と結ばれたという記述からも、海人との連帯の重要性が暗示されている。

 空海は、唐に渡る前に、四国の山岳地帯で修行をしていた。そして、唐にわたってすぐ、当時の先端仏教である密教の奥義を体得し、密教の正当な後継者となった。

 空海が、単なる天才だったからそれができたのではなく、四国における修行で、十分にその素養を身につけ、準備ができていたからだろう。

 おそらく、後に丹生都比売との縁で高野山を開くことからも、四国の山岳地帯での修行は、辰砂に関係する人々とつながり、それは全国にネットワークを持つ海人ともつながっていた。辰砂(丹生)は、ただの鉱物ではなく、ネットワークの要であったはずだ。全国に、丹生という地名が残っていることが、そのことを示している。

 空海は、そのネットワークに深く通じていた。空海の実家である古代佐伯氏が、そのネットワークと関係していた可能性もある。(広島の厳島神社や北九州の住吉神社世襲神職は佐伯氏であり、播磨、安芸、讃岐、豊後など瀬戸内海交通の重要地に佐伯の地名が残る)。

 空海が、唐に渡ってすぐに密教の奥義を極められたのは、大日如来を中心にして叡智が放射状に広がる胎蔵曼荼羅で象徴される密教コスモロジーと、辰砂を要とする日本の古代ネットワークのあいだに、何かしら重なるものがあったからではないだろうか。

 

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