第1452回 歴史が動いた時の背後。

久しぶりに天気が回復したので、昨日、以前から気になっていた所を訪れた。

 これは、大谷選手の話題とは異なり、かなりマニアックで、古代に興味がない人には退屈な話だけれど、古代の重要鉱物である丹生=辰砂=硫化水銀や、現在、大河ドラマでやっている平安時代の10世紀から11世紀のことに関心のある人は、少しは気になる話かも。ただ、いずれにしろ、日本の歴史を捉え直すうえで、とても重要なこと。

 昨日、私が訪れたのは、松尾大社の近くの私の家から、ちょうど真東に大文字山が見えるけれど、その少し南、安祥寺上寺跡というところ。

 この場所に立つと、南側に山科盆地、その向こうに奈良盆地を見渡せ、盆地の彼方に、吉野の山々が見える。

 近畿は、ちょうど真ん中に縦長の盆地があり、その南端が吉野で、北端が、京都盆地と山科盆地だ。

 南北に細く伸びる盆地の上、東経135.81が、近畿のど真ん中のラインで、この最南端が潮岬、最北端が、若狭の常神半島の先の御神島になる。

 そして、興味深いことに、この近畿の真ん中ライン上、飛鳥には天武天皇陵があり、山科盆地には天智天皇陵があり、いずれも世界でも珍しい八角墳だ。

 さらに、このライン上に、藤原京平城京弥生時代の銅鐸の最大の製造基地である唐古遺跡(奈良県田原本町)まで重なってくる。

 この南北のライン上で、南北に伸びる縦長の盆地の南端の吉野では、丹生川上神社(下社)が鎮座しており、ここは丹生川の上流部で、丹生川は吉野川と合流し、紀ノ川と名称を変えて、太平洋と瀬戸内海の分岐点である紀伊水道へと注ぐ。

 そして、この南北ラインの北端にあたる山科で、吉野と向き合うように標高350mのところに築かれたのが安祥寺上寺であり、最盛期の平安時代前期は、ここから南の山裾あたりまで、堂院、僧房、塔、仏堂、僧坊、楼門など壮麗な建造物が展開し、塔頭の坊舎が七百余もあったよう。

 この場所は、山科川の源流であり、山科川を下っていくと、紫式部のルーツである宮道氏の館(現在は勧修寺)があるところ(山科の小野郷)を通り、宇治川と合流し、大阪湾へと注ぐし、宇治川を遡れば、宇治(この場所も、東経135.81のライン上)を軽油して琵琶湖へとつながる。

 近畿の真ん中の縦長の盆地で、東経135.81上の南北の端にあたる吉野の丹生川上神社(下社)と、山科の安祥寺上寺跡は、河川ネットワークの起点でもある。

 さらに、山科の安祥寺上寺跡の登り口のところは、後山階陵遺跡という6・7世紀を最盛期とする古代たたら製鉄が行われていた場所だった。

 そして、この製鉄遺跡の場所に、平安時代初期、第54代仁明天皇の皇后、藤原順子の陵墓がある。

 安祥寺も、この藤原順子が発願したもので、唐の長安にある青龍寺より青龍権現を請来して創建された。

 青龍寺というのは、空海密教を学んだ恵果が住持していた寺だ。

 空海高野山を開く際、丹生津比売神社が神領の一部を寄進したと伝えられ、丹生津比売神社が高野山鎮守神とされているように、空海と、丹生の関係は深い。

 高野山奥の院は、辰砂(丹生=硫化水銀)の鉱脈の上にある。

 そして、藤原順子が、なぜ山科に、空海ゆかりの青龍寺より青龍権現を請来して安祥寺を築き、さらに、その南麓の製鉄遺跡のところに陵墓が築かれているのか?

 歴史の教科書ではいっさい触れられていないが、日本の歴史を考えるうえで、極めて重要なことが、ここに秘められている。

 藤原順子は、一般的には、藤原北家の繁栄の基礎を築いた藤原冬嗣の娘として紹介される。

 藤原冬嗣以前は、藤原四家のうち、式家が桓武天皇の擁立に関わって権勢をふるっていた。奈良時代は、光明皇后の信任が厚かった藤原仲麻呂の南家が政治の頂点にいた。

 一般の歴史好きのあいだでは、藤原冬嗣は、橘嘉智子と関係を深めて、その夫である嵯峨天皇擁立に貢献し、薬子の変で式家を凋落させ、娘の順子を嵯峨天皇の子である仁明天皇の皇后とし、藤原北家の繁栄の基礎を固めたと説明される。

 歴史の通説というのは、このように一人の人物の陰謀とか立ち回りによって歴史が動いていったように説明されているのだが、歴史は、誰か一人が、「ああすれば、こうなる」といった具合に単純に動いていくはずがない。

 どのように複雑かというと、藤原冬嗣の政権工作に貢献したと考えられているのが、藤原良房と藤原順子を生んだ藤原美都子で、彼女は、当時としては珍しく、藤原冬嗣と合葬されている。

 彼女の父は、その当時没落していた藤原南家の藤原美作であることはわかっているが、母が誰なのかがわからない。

 藤原美作は、中央では活躍できず、石見、阿波、三河などの地方官僚をつとめていた。なので、藤原美作が、藤原美都子の後ろ盾となって藤原冬嗣の政権工作に貢献できたとは考えられない。

 だとすると、美都子の母の実家の存在が気になるが、痕跡が消されている。

 しかし、美都子の娘で仁明天皇の皇后になった順子が、山科の製鉄遺跡の場所に埋葬され、ここに安祥寺を築いたのは、この場所の勢力と深い関係があったからだと想像できる。

 藤原順子は、京都市の五条堀川に館を構え、五条后と呼ばれた。

 ここには柿本町があるが、柿本人麿が、丹生と関わり、古舞を管掌する一族であった丹比氏の丹比嶋の支援を受けて、その関係の呪的集団の依羅(よさみ)の娘を妻としていたことを、数日前のエントリーで書いた。

 京都の五条堀川の柿本町の北300mの元京都市立醒泉小学校の跡地から、竪穴住居9棟や方形周溝墓が見つかったほか、千点を超える土器や石器が出土した。また、北東から南西に水が通った流路が作られていたこともわかった。このあたりは、ちょうど鴨川と桂川の中間で、川の流れの向きを考慮すると、北東から南西の方向だと鴨川から桂川へと水を流すことができる。

 この巨大な弥生遺跡は、醒井(さめがい)通りに面していて、滋賀県米原市で霊仙山を源とする清流に沿った日本有数の名水の地も醒井であり、ここは、今でも「丹生」という地名である。

 そして、京都の柿本町の西に壬生寺がある。12世紀に、”大勢で一緒になって念仏を唱える”という融通念仏という宗教運動が起き、それが集団での踊りという形になっていくが、1300年、京都の壬生寺において、融通念仏を行っていた円覚上人によって、壬生大念仏狂言が始まったことを、数日前のエントリーで書いた。

 アメノウズメが象徴しているように、踊りには、古代の巫の行為が反映されているが、それが丹比氏という「丹生」関連勢力に受け継がれ、律令制開始期に活躍した柿本人麿を後援(丹比嶋)し、この流れが、中世の芸能文化につながっていったことも、そのエントリーで説明した。

 かつての壬生寺は、現在の場所よりも少し東であり、現在の柿本町も含んで、ここら一帯は「壬生」だったのだろう。壬生は、丹生と同じである。

 この京都の「丹生」の場所に、五条后と呼ばれた藤原順子が館を構えていて、京都の山科に、安祥寺を築き、その麓の古代たたら製鉄の場所に陵墓が作られた。

 しかも、この場所は、近畿の真ん中の南北に伸びる盆地の北端であり、その南端が、吉野の丹生川の上流部に鎮座する丹生川上神社(下社)。丹生と丹生がつながっている。

安祥寺が築かれたところは、山科川の源流でもある。

 丹生川上神社は、史実かどうかはともかく、初代神武天皇が戦勝祈願をしたところと伝わるが、この場所と、山科の安祥寺を結ぶライン上に、天智天皇天武天皇八角墳が築かれ、藤原京平城宮まで建設されている。日本古代において、極めて重要な何かが、丹生と丹生を結ぶラインの背後に秘められている。

 当然ながら鍵になってくるのは、丹生の海人の存在だ。

 先日の記事で、中央構造線上に、三島明神大山祇神)と関わりの深い丹生関連の女神の聖域が並んでいることを書いた。

 防水効果と防腐効果に優れた丹生=辰砂は、船の建造に欠かせなかったゆえに海人との関わりが深かった。

 そして海人は、漁労に携わったり船を操って物質や人を運ぶだけではなかった。

 肥前国風土記には、海人族が、「騎射(うまゆみ)を好み」とあり、船で馬を運んで騎射を行う戦闘集団であったことが示されている。

 歴史的転換期には、この戦闘集団が大きな役割を果たしていたのだろう。

 藤原順子の墓が、古代たたら製鉄所の場所に築かれているのも、その集団とのつながりがあってこそであり、彼女の母、美都子が、藤原冬嗣の政権工作に大きな貢献をしたのも、同じ理由だ。

 藤原美都子の母親が誰だかわからないと先に述べたが、美都子の弟の藤原三守は、嵯峨天皇の皇后、橘嘉智子の姉を妻とした。

 橘嘉智子は、京都に梅宮大社を築いた。橘というのは、県犬養氏が名を変えたものだ。藤原不比等の後妻として、不比等の出世を陰で支えた県犬養三千代が、京田辺の綴喜に築いていた梅宮大社を、平安遷都後、橘嘉智子が、桂川のほとりに勧請した。これは県犬養氏氏神であり、祭神は大山祇神三島明神)である。

 そして藤原冬嗣藤原北家は、藤原不比等の前妻の子である房前と、県犬養三千代の前夫との子である牟漏女王のあいだに生まれた子の末裔であり、藤原北家の祖として藤原不比等のことばかり取り上げられるが、県犬養三千代こそが重要である。なぜなら、その当時の天皇元明天皇という女帝であり、彼女が子供の頃から県犬養三千代が教育そのほかに関わり、絶大なる信頼を得ていたのであって、当時、下級官僚だった不比等は、彼女のお陰で出世できた。

 藤原北家は、不比等だけでなく、丹生の海人勢力と関わりの深い大山祇神氏神とする県犬養(橘)の血統でもあるのだ。

 そして、藤原冬嗣の妻、藤原美都子の弟の藤原三守橘嘉智子の姉と結ばれたように、美都子の母は、この丹生の海人勢力と関わりが深かったのだろう。

 だから、美都子の娘の順子が、五条堀川の壬生(丹生)の地に館を構え、吉野の丹生川上神社と向かい合うような山科に安祥寺を築き、その麓の古代たたら製鉄の場所に埋葬された。

 そして、この藤原順子が、歴史的に大きな意味を持ってくるのは、842年の承和の変である。

 第52代嵯峨天皇の子の仁明天皇の時代、皇太子は、第53代淳和天皇の子の恒貞親王であったが、恒貞親王廃太子となり、代わりに、藤原順子が産んだ道康親王(後の文徳天皇)が皇太子となった事件で、一般的には、藤原冬嗣の子の藤原良房の陰謀などとされている。

 しかし、処罰された者の数は膨大で、当時の良房の政治的地位で、ここまで大規模な政変が可能だと思えず、それゆえ、皇太后であった橘嘉智子が、強いエゴで、自分の孫を皇位につけようとしたとも説明される。

 これは、持統天皇が、自分の子の草壁皇子を世継ぎとするため、陰謀によって大津皇子を死に追いやったとする説と似ているのだが、橘嘉智子というのは、当時、来日した禅僧から、日本で唯一、禅のことを理解していると言われた女性で、彼女は、日本で最初の禅寺である檀林寺を、現在、嵯峨野の天竜寺がある場所に築いた。そんな彼女が、自分の執心で、政変を起こすとも考えにくい。

 だから、事実はそれほど単純なものではないだろう。

 恒貞親王も、その父の淳和天皇も、承和の変が起きる前から、争い事に巻き込まれることを予期して、皇位につくことや、皇太子の地位にあることを辞退し続けており、当人たちの気持ちとは別の力関係が、背後にあったと考えられる。

 持統天皇が33回も吉野離宮に足を運んでいた謎について、先日も書いたが、持統天皇の背後には、吉野の丹生勢力がいた。

 承和の変においても、藤原順子の背後にいた丹生勢力が、大きく関わっていた可能性があるのではないだろうか。

 一般的に、歴史を振り返る時、男系の権力者の系譜ばかり追う傾向にある。藤原不比等がどうのこうのと、一人の男の陰謀によって、歴史が左右されてしまったかのように。

 しかし、権力者の子であっても、養育は、母方の実家であり、子は、母方の実家の影響を強く受けていた。

 源氏物語は、光源氏が消えてしまった後、明石入道の一族の繁栄の物語となるが、明石入道の悲願の夢は、自分の娘が産んだ娘が、天皇の世継ぎを産むことだった。このエピソードは、天皇の地位という権力を得ることよりも、国母の実家として、世継ぎの養育や教育に関わることが重視されていたことを反映している。

 これに関して大事なことは、天皇というのは権力者ではなく、先日も書いたように、その重要な役割は、国家の安泰と国民の幸せを祈ることであり、その祭祀の本質は、古代の巫女が、自分の存在を打ち捨てる覚悟で神に仕えることで、その身に神を憑依し、神そのものになって、人々を災難から守護するために祈ることである。

 世継ぎを養育するということは、その精神を伝えることでもあったのではないか。

 ちなみに、丹生の転語である壬生というのは、皇子や皇女の世話や養育を行う大王直属の集団と説明されるのだが、大事な皇子や皇女に多大なる影響を与えるポジションを、ただの職能とするのは不自然であり、古代からの慣例である母の実家がその役割を担い、それが壬生とされたのは、結果として、丹生関係の女性が、その母であったことが多かったのだろう。

 それは、古事記の中に登場して大王から求愛される女性の大半が、水辺の巫女的な女性であることにも、つながってくる。

 丹生の女性というのは、島国の日本においては、縄文時代から続く海人族の女性であり、渡来人が多く来日し、彼らがもたらした新しい知識や技術によって日本の制度が変化していった後も、その勢力は政治の表舞台にはあまり顔を出さず、陰の力として、また文化の担い手として、そして、古代からの祈りの継承者として、重要な役割を果たし続けていたのだと思われる。

 

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