第1192回 オリックスの山本投手のトレーニング方法と、いにしえの日本

 日本で最も人気スポーツである野球で、最高峰の投手でアメリカ球界も注目しているオリックスの山本投手がこんなことを言っている。

「昔の女の人が米俵を担いでいる写真。担げるの?って思うじゃないですか。コツを知っているから持って運べる。人間にはそれだけの力があるはずなんです。トレーニングしているわけではないのに、生きるためにこういうことができる。じゃあ筋肉じゃない。自分の体の重心の位置を明確にすることが大事。力で持ち上げているわけではなく、うまく乗せている。投げるのも一緒だと思う」

 米俵を担いでいる女性とか、同じような古の日本人の特別な力は、石牟礼道子さんを世の中に出して支え続けた渡辺京二さんの名著「逝きし世の面影」で詳細に描かれている。江戸幕末から明治にかけて日本にやってきた欧米人が、日本人の”特殊”な能力に驚いて、その時の文章を残しているのだが、渡辺さんは、それらを丁寧に取り上げている。

 その中に、江戸から箱根まで休憩なしに疲れ知らずに走る馬子とかも紹介されている。

 当時の日本人は、近代によって蝕まれてしまった特別な身体能力を持っていた。それは、日々の身体の使い方によって育まれていた。

 プロ野球選手として決して恵まれた体格でないオリックスの山本投手は、流行のウェイトトレーニングを一切やらずに、ブリッジとか、柔軟性を含めた強度を得るために、かなり変わったトレーニングをやっていることで知られている。

 日本が欧米から輸入してしまった悪習は、反動や反発の理論にもとずく身体の使い方や思考方法だ。

 反動や反発の論理というのは、”抵抗”を力に変える性質がある。地面を強く蹴ることで推進力に変える走り方が、速い走り方とされているが、江戸時代までの飛脚は、地面を蹴るのではなく、足を運ぶような走り方で、速く、長く走ることができた。

 古代から日本人は、能や相撲などに見られる摺り足が基本だった。服装なども、そうした身体の使い方に応じたものになっていた。

 だから、思考の方法も、近代以降とはまるで違ったものだったはずだ。

 反動や反発の論理は、近代のエネルギー獲得の方法や、動力を生じさせる方法もそうなっている。

 燃料が石油であれ天然ガスであれ原子力であれ、水を沸騰させて蒸気にして、その蒸気がタービンを回す時の抵抗力で電気が作られる。

 拳銃であれ大砲であれ、狭い所で火薬が爆発し、その爆発力を外に広げない抵抗力が弾丸を前方に押し出す圧力に変える。

 溜めたものを力に転換するという発想は、不満が最高潮に達して政権打倒に至るという革命思想にもつながる。労働争議もそうだ。MINAMATAの映画のような極度に単純化された善と悪の思想もそうだ。

 近代人は、物事の考え方として、そうした反発の論理が当たり前と思っている。

 しかし、反発の論理というのは、一瞬にして大きな力を発揮するうえで役に立つかもしれないが、持続性において問題がある。

 スポーツ選手は故障をしがちになる。爆発を閉じ込める器も、圧力に耐え続けるわけだから傷んでくる。そして、メンテナンスを怠れば大事故につながる。

 しかし、150年くらい前までの日本人は、そうした反発の論理ではない方法で、うまくやっていた。

 それは日本人だけでなく、世界中の多くの地域でそれができていた。なぜなら、それは、人間にとって自然なことだから。だって、野生の生物は、トレーニングなどやらなくても速いスピードで走れるし、鳥も空を飛べるではないか。

 異様なことをやっているのは、そうした自然に即したことを遅れているとみなし否定し破壊してきた近代西欧文明なのだ。

 近代西欧文明は、反発の力を利用するコツを得ることで、短期間に圧倒的な勝利を得た。一度そうなると、その反発の力に歪みが出ても、その代用を次々と作り出して、その新たな力によって、短期間的な勝利を収めることができる。

 西洋的発想は、短期間の圧倒的勝利を連続して続けている。学説や思想にしても、西洋的思想は、古代の思想のような永続性はなく短期間のうちに古いものとされる。しかし、欧米の方法論を世界標準にするという土台の部分を最初に抑えているので、次の正しいものを決めるうえでも、議論という反発の論理を通さなければならず、その論理性で他を圧倒した勝利者が短期間のうちに次のスタンダートになり、すぐにまた次のものに取って変わられるということが繰り返されている。この世界では、つかの間、脚光を浴びては消えていくが、実態を失っても、その道を作った権威として残るという慣習があり、それが虚栄の温床になる。そして、その虚栄の権威が、その方法を維持させる大きな力となるのだ。

 まったく違った方法論と実態に取って代わられると、虚栄の権威は、まったく無意味どころか、弊害であることが明確になってしまうから。これは、学問の世界でも政治の世界でも、残念なことに芸術の分野でも同じである。おしなべて骨董価値を維持するための仕組みだ。

 なぜ西欧が、”反発”を強大な力に変えるきっかけを得たのか?

 それは、同じ宗教原理を持つはずのキリスト教が、新教と旧教に分かれて、一方がもう一方を否定するという血みどろの戦いを繰り返した宗教戦争を経験したからではないかと私は思う。宗教戦争の終了とともに、西欧は、急激に近代化を遂げた。

 西洋近代主義の思想的要になったのがデカルトの思想だが、デカルトは、ドイツ30年戦争という最後の宗教戦争に志願し、地獄を見た。

 そして、どちらが正しいのかを決めるために、戦争ではなく、論理を重んじる流れを作り出そうとして、1637年、方法序説を書き上げた。

 方法序説とは、「理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話」である。

 これが、いわゆる科学的思考だけれど、この科学的思考の誕生そのものが、宗教戦争に対するデカルトの”反動”なのだ。一方を否定する力が、もう一方を育む力になる。

 この思考に支配された全世界の近代人は、「物事を考えるというのは、そのように考えるもの」というバイアスがかかっている。この土俵のなかでの競争、相手を打ち負かすことができる=一方を否定する力を備えていることが、優秀な条件ということになる。政治家の演説は、その幼稚なレベルのものだ。しかし、悲しいかな、その幼稚なレベルの、一方を否定して一方を肯定するやり方が、票につながるという現実がある。

 バイアスというのは価値観ともつながり人生観にもつながる。その穴蔵のなかで、それ以外の道があることに対して盲目になる。

 もっともメジャーなスポーツである野球で、それほど体格的に恵まれていない選手が、日本で最高のパフォーマンスを発揮していて、そのトレーニング方法が、近代化以前に、小柄な女性が米俵を軽々と担ぐことができていたという写真からインスパイアされているというのは面白い。

 こういうことが、未来の新しい変化につながるきっかけになればいいのにと思う。

 

 

ピンホールカメラで撮った日本の聖域と、日本の歴史の考察。

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