第1025回 琵琶湖の周りに点在する聖なる岩山

 
 

 琵琶湖の湖東、近江八幡から東近江、そして栗東にかけて、裾野が広がった美しい姿の岩山が数多く点在している。
 それらの山々の多くは、頂きに巨大な磐座が鎮座し、古代から聖なる山、神が宿る神体山として崇められてきた。
 こうした地勢ができたのは、日本列島が作られた時よりも遥かに古い。日本列島が大陸から引き離されたのは、2100万年前から1100万年前と考えられているが、東近江で太郎坊宮として知られる阿賀神社が鎮座する標高350mの赤神山を中心として、約7000万年前の火山活動の名残であるカルデラが、ぐるりと環状形に広がっており、その環は、琵琶湖の湖西の比良山系や伊勢と近江のあいだに横たわる鈴鹿山脈にまで及ぶ。
 琵琶湖は、ロシアのバイカル湖、アフリカのタンガニーカ湖に次いで世界で3番目に古い淡水湖で、600万年前に形成されたと考えられているが、当然ながら、琵琶湖周辺の大地も古い時代のものである。
 その長い歳月を経て、花崗岩とか、マグマで焼き固められた硬い変成岩以外の柔らかいところは風化されていった。その結果、火山ではないのに火山のように美しく裾が広がった山が、いずれも単独峰で形成された。そのほとんどが高さ500m前後だが、周辺が平地なので遠くからでも目立つ。そして、それらの山の頂上付近は、柔らかい土の層が洗い流されて岩盤が剥き出しになっており、数々の磐座がある。簡単に登れる山の頂上に、奇岩、怪岩が多く見られるのだ。
 古代人は、それらの磐座を神聖視した。そして、春秋など特定の日時に、麓のクニの住民たちが山に登り、一緒に食事をして、磐座のまわりで歌垣が行われた。
 歌垣は、若い男女が伴侶を見つけるためのもので、互いに求愛歌を掛け合いながら、機知や教養が試された。時に、老人が、若い頃の過ちなどを歌い上げ、人生はそんなに長くないのだと消極的な男女に恋することを促した。多くのカップルが誕生することが豊作につながると信じられていたのだ。
 古代歌謡としての歌垣は、古事記万葉集風土記などに見えるが、こうした歌のやりとりは、日本の歴史上もっとも優れた小説とされる『源氏物語』の中でも、男女の重要な交流手段となる。
 一千年前、紫式部によって書かれた『源氏物語』の中では、お互いの顔を見ないまま、簾越しに歌が交わされたりするが、歌にこめられた言霊は、ものごとの境界において、その力をより強く発揮する性質のものだったのだろう。
 『源氏物語』は、登場人物が、430余人にも達し、人物の性格描写は精彩で、個性的に描き分けてあり、それゆえ、西欧においては、20世紀を代表する世界的傑作として知られるマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』との類似性が指摘され、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』や、トルストイの『戦争と平和』などとともに、人類が生み出した最も優れた12の小説の一つに位置付けられている。
 それらの偉大なる小説は近代の表現物だが、『源氏物語』だけが、一千年も前に書かれた。『源氏物語』は、突然変異的に、この日本に現れたのではなく、古代から続けられてきた歌垣などを通して、一人ひとりの個性が、心の微妙な機微を歌い上げて言霊を磨き上げてきた伝統の積み重ねの中から生まれたと考えてよいだろう。その一つの集大成として『源氏物語』があり、『源氏物語』を通して、禅や能など中世日本文化が洗練されていき、それらの中世日本文化が、近代文化の行き詰まりの中で足掻く欧米人に再評価されたりしている。
 歌垣の風習は、日本の他に、中国南部からベトナムインドシナ半島、フィリピンやインドネシアにも存在する。このことから、古代日本の文化は、東南アジアから中国南部にかけての地域と一体の文化圏を築いていたという見方もあるが、日本人にかぎらず、言霊の力で、創生神話を伝え、祖先を敬い、収穫を祈り、死者を悼むことは、人類普遍の精神活動だったとも言える。
 しかしながら、古代の日本人が、磐座など境界性の強い場で、歌垣を行いながら、心の微妙な機微を読み合っていたことは、非常に意味深い。
 というのは、日本の文化、文芸、芸能は、その境界性の中でこそ一段と深められてきたからだ。
 日本人は、”境界”を、固定的な分け隔てるものとして捉えるのではなく、異質のものを共存させる”間”という柔軟な時空間として捉えてきた。
 中世において、茶の間、床の間などが発達し、襖だとか障子で部屋を仕切るようになった。
 日本語の空間・時間・世間・人間というように、「間」という言葉は、私たちが生きていくうえで関わる重要な局面に使われている。芸術から建築、死生観に至るまで、日本文化の真髄は「間」にある。日本の「間」は、壁でもなく、だからといって何もないわけでもなく、微妙なバランスを保ちながら大きな力を発揮するポテンシャルを備えたものなのだ。
 そうした”間の文化”が、近代的自我によって、自分と他人、この場所と別の場所、生と死を峻別する西欧的な時空観の限界を超える可能性を秘めたものとして心惹かれる人が増えているのかもしれない。
 「間」を重視する日本人の時空間に対するセンスは、きっと風土によって育まれた。異なる形や性質のものが絶妙に配置され、響きあい、美しく調和し、時とともにダイナミックに変化していく日本の風土によって。
 とりわけ近江は、磐座のある神体山に登ると、琵琶湖の広がりと平野の広がりの中に、周辺の美しい形をした山々が散在するのを見ることができる。
 そうした風景を堪能する気持ちは、私たちと古代人のあいだに違いはなく、その気持ちを誰かと共有するために何かしらの表現を行おうとする心の衝動も同じだろう。
 琵琶湖の周りに点在する幾つもの聖なる山は、日頃、忘れているその感覚を、わずか1、2時間ほどの登山で蘇らせてくれる。