第1026回 リアリティと幻想の交錯


 

4月5日、写真家の森永純さんが亡くなった。80歳だった。森永純さんのことを、知っている人は少ないと思う。森永純さんは、日本の写真界で、写真展という形で最初に展覧会を行った人だ。それまで日本における写真家というのは、雑誌や新聞などに素材を提供する者であり、一人の表現者として作品を世に問うということを行わなかった。だから、森永さんの展覧会の時に、朝日新聞にべったりの木村伊兵衛が文句をつけた。
 森永さんの作品集は二つしかない。一つは、ユージンスミスがその写真を見て(原爆を連想して)号泣した東京のドブ川の写真。そして、もう一つが30年以上撮り続けているのに作品集にまとめようとしなかった森永さんを私が説得して編集をさせてもらった「WAVE」。
 「WAVE」は、森永さんの名前を知っている人はそんなにいないだろうと思って600部しか作らず、50部を森永さんに進呈したが、全部、売り切れてしまった。
 この写真集を作る2年くらい前だったか、小説家の田口ランディさんが、森永さんの作品のファンなので、彼女を連れて森永さんの所に行った。そうすると、森永さんは、数ヶ月会わなかったうちにげっそり痩せていて、本人は自覚がなかったのだけれど、重い病だった。私たちに言われて、翌日、森永さんは病院に行ったが、病院のロビーのところで気を失って倒れ、医者に、もし倒れた場所がここでなかったら死んでいたと言われた。
 長い入院生活の後、リハビリを行い、自宅に戻った頃、「WAVE」の写真集を作りましょうと森永さんに提案した。森永さんは、まだ未完だからと渋ったが、このまま未完のまま終わってしまうのではないかという危機感が私にあったのだと思う。それだけ、森永さんは重症だった。
 その後、写真集も無事にできたし、それをきっかけに、各地で展覧会が行われた。ちょっとした森永純ブームだった。
 一度は死にかけたけれどなんとか生命をつなぎ、最後の最後に、長いあいだの沈黙を破って、写真家、森永純の仕事を世に問うことができた。
 「WAVE」は、ひたすら波だけを撮った写真集だが、長崎への原爆投下で父と妹を失い、真っ白な廃墟から戦後を生き始めた森永純さんが、ご本人は意識しないまま、高度経済成長期の東京のヘドロで埋まったドブ河の写真を象徴的に撮り続け、シャーマン的な素質のあるユージンスミスは、それらの写真に衝撃を受けた。
 ユージンスミスは、森永さんのドブ河の写真を見たことで若かった森永さんを、日立の会社案内を作る仕事でアシスタントに望み、ユージンスミスと森永さんは行動をともにした。
 世界的に有名な写真家ユージンスミスのアシスタントとして紹介される森永純さんだが、森永さんは、とくにユージンスミスの写真の影響を受けておらず、ユージンスミスこそが、森永さんの写真によって触発されるものがあった。晩年、日本と縁が深くなったユージンスミスが撮った水俣病の写真には、森永さんの写真からの影響が強く出ている。この社会の中で、1000人にも達しないかもしれないが、森永さんの写真と正面から向き合ったことのある人にだけ、そのことがわかる。そうでない人にとっては、そんなことはどうでもいいこと。
 しかし、長崎の原爆から戦後の水俣病の問題のあいだに、森永純さんのドブ川の写真が存在しているが、一つの作品で、間違いなく、あの時代の重要な何かを伝えている。あの時代を伝える芸術作品として、森永さんのドブ河は外せないものだ。
 その森永さんが、ドブ河の作品を発表した後、昇天したかのように、波という森羅万象の律動だけを、写真に撮り続けた。 
 ユージンスミスが生きていたら、森永さんの「WAVE」を見て、何を創造しただろう。
 ユージンスミスのようなシャーマン的素質のある写真家がどれだけ残っているかわからないが、「WAVE」の中に、宇宙の根本原理を見出す写真家が、きっといると思う。
 ここ2年ほど、いろいろあって、森永さんと会えなかった。
 森永さんが元気な時は、代々木の喫茶店で、よく話をした。私に、写真を撮れともよく言っていた。森永さんが亡くなる前に会っておけばよかったとは思わない。4年前に亡くなった「アンダーグラウンド」の写真家、内山英明さんもそうだが、生前、いくら親しくても、会っている時は表現の話しかしなかったので、亡くなってからも、作品が手元にあるかぎり、生きているような感覚がする。
 芸術家の魂というのは、そういうものだから。
 森永さんは、「WAVE」の中でこう書いている。
 「海の波ほど、私たちの脳でおこる夢に似て、リアリティと幻想の交錯が激しい世界はない」。
 芸術家の人生も同じだろう。
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