第1430回 もし安井仲治が、あと30年長生きしていたなら。(1)

 東京都国立近代美術館で展覧会が行われている中平卓馬の写真が、対象を観るというより、強い自我と呼応させるように対象に手をくわえているのに対して、虚心の目に徹し切って世界の実相を写真で捉えようとした安井仲治の展覧会が、東京都ステーションギャラリーで開催されている。

 自我を軸にした虚栄や卑屈の自己中心的アウトプットが氾濫する時代に、中平卓馬が次世代に与えた影響などを確認するよりは、安井仲治の写真に、未来の在り方を再確認した方がいいのかもしれない。

 安井仲治は、1903年に大阪で生まれ、1942年3月、腎不全のため38歳の若さで夭折したが、もしも彼があと30年長生きしていたら、戦後日本の写真は、メディア受けの良さが評価基準になったり私ごと表現に閉じてしまわず、もう少し人間と世界の関係を思索させる表現になっていたのではないだろうか。

 安井仲治は、「カメラの発見は、文字の発見と同じ程度の意味がある」と考え、その自覚のもと、写真家の存在根拠と、その未来を一心に求め続けた。

 虚心に世界を観るからこそ、自分が置かれている状況に応じて見えてくるものが異なって当然である。その見え方を偽りなく写真化することが写真家の仕事であり、その時、写真の中に世界の実相が現れる。そのように安井は、考えていた。

 安井が、虚心の目で世界を観て撮った写真によって、それぞれの状況における人間や物事の構造が象徴的なサインとなって浮かび上がる。そのサインは、個々の人間が、テレビや情報知識の影響を強く受けながら見ているようで実際は見ていないリアルな世界の実相だ。

 それは、中平卓馬のような、世界の実相ではなく自己の内面を覗き込むような視点とも違う。

 安井仲治の写真は、初期のビクトリア朝の作風から、コラージュ、フォトモンタージュ、ソラリゼーション、クローズアップ、プレボケなど戦後日本社会で流行したテクニックを、戦前に全て消化しているが、多くの写真家が流行の技法自体に踊らされたり執着するのみで、西欧の写真の未熟な模倣に落ちているのに比べて、安井は、まったく異なる次元で自作に昇華させて、特に晩年の寂寞とした境地は、西欧を通りぬけて日本固有の世界観へと到達している。

 安井が生まれたのは、ちょうど日露戦争の前年だった。日本が世界の大国の仲間入りを果たそうと急激に近代化を進め、その性急なる行動の結果、深刻な矛盾に直面し、ついには太平洋戦争に突入するという時代を安井は駆け抜けたのだった。

 安井の人生において一貫していることは、他者(世界)に対する謙虚な眼差しだ。彼は、幼少の頃より異質なものが集まって世界が構成されることを肌で知っていたので、自己の殻に閉じこもることなく、異質な他者に心を開き、受け入れ、自分の中で異質なものを調和させ結実させていた。それが彼の写真だった。

 彼の生家は、洋紙店で、仕事柄、海外と接触の多い環境で育ったが、住んでいた家は本格的な日本庭園を備えた純日本風の邸宅だった。そして身体が弱く文学に親しんでいた彼は、健康のために野外に出るようにカメラを与えられる。若い頃の安井は、文学、絵画、短歌、茶道などにも親しんでいたが、18歳の時に大学受験に失敗し、写真の道に入っていく。

 安井は、既に一般化された価値観や美意識を拠り所にした表現活動で優劣を競い合っていた同時代の多くの写真家たちと距離を置いていた。だからといって新しい変化の表層を追うのではなく、その変化の中に潜む力を捉え直して、新たに再構築していくことを自分の天命と捉えていた、それは、彼が慕い、研究を続けていた芭蕉の「不易流行」の精神に通じるものがある。

 安井は、とても裕福な家に育ったが、その世界に閉じこもることなく、身体が弱かったせいもあるかもしれないが、貧しい人たちなど弱い立場にありながら尊厳を持って生きている人々に惹きつけられ、彼らの内面を引き出すような写真を撮った。

 10代の頃、朝鮮人の人々に出会い、「ほんとうの人間らしい顔」を発見したと述べ、朝鮮集落を何度も訪れ、写真を残している。

 「ほんとうの人間らしい顔」とは、どういうことなのだろうか。

 安井は、権威化されたこと、ステレオタイプ化されたこと、大勢が「いいね!」としていることをなぞるだけで満足している姿勢に違和感や反発を持ち、そうした流れとは逆の方向へ自分を導いていた。惰性に陥ることは、人間ではなく機械のようなものだと感じていたのだろう。

 

 安井は、戦時下の1941年にナチスの迫害を逃れてアメリカに行く途中で神戸に立ち寄った亡命ユダヤ人を撮影しているのだが、その肖像写真は、自らが置かれた恐怖と不安のなかでも決して投げやりになることなく生きている人間の真摯で哀しい表情と目が捉えられている。

 また、安井の人間性と、表現者としての姿勢と視点が、非常にはっきりとしている一枚の写真がある。

 それは、「惜別」と題されたものだが、出征兵士を見送る人々のなか、じっと立ち尽くす母親を撮ったものだ。母親以外の群集は川のように流れて姿は判別しない。

 顔の見えない集団の激しい流れのなか、朧に浮かび上がる母親を通じて、集団のなかの個の哀しみが漂う。

 太平洋戦争の最中、多くの写真家は、戦争宣伝メディアの一員となった。

 1942年、東方社という出版社のもとで、戦争プロパガンダを目的とするグラフ誌「FRONT」が創刊されたが、東方社の写真部主任を努めていたのが木村伊平衛であり、彼は、軍の宣伝工作に積極的に便乗していた。 

 そして、戦後の日本写真界の主要な評価軸になったのが、この木村伊平衛であり、新人写真家の登竜門のようになった賞に、その名前がつけられている。

 新人発掘の権威機関のようになった木村伊平衛賞が、きわめて世俗的なものになっていったことは、たまたまではない。

 私が2014年に「WAVE」という写真集を作った森永純という写真家がいた。

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 彼は、若い頃、高度経済成長下の東京のヘドロだらけのドブ河の写真を撮っていたが、それらの写真を見たユージンスミスが号泣した。そして、ユージン・スミスは、彼をアシスタントにし、その後、ニューヨークに彼を呼んだ。

 ユージン・スミスにとって、森永純との出会いは大きく、彼が後に「水俣」の写真を撮ることになる流れは、森永純との邂逅から始まっている。

 当時、ユージン・スミスが、日本に来ていた理由は、LIFEという世界的権威のようになっていたグラフ雑誌と対立して仕事を失っていたからだ。

 ユージン・スミスは、自分が信念を持って撮った写真をメディアが都合よく利用することに反発し、写真家は、自らの信念と自らの視点に基づいた表現者でなければいけないと考えていた。

 生前の森永純から聞いた話では、このユージン・スミスと一緒に行動していた森永純は、帰国してすぐに細江英公さんたちと相談して、写真家が自らの作品の発表の場として写真展を開いて、写真プリントを販売することを計画した。こういう試みは今では当たりだが、その当時の日本では、無かった。

 その写真展で、最初の展示をしたのが森永純だったのだが、その会場に、木村伊兵衛が乗り込んできて、猛烈に非難したのだという。

 木村伊兵衛は、LIFEと対立したユージン・スミスとはまったく逆の考えで、写真というのは、写真家の表現物ではなくメディアを通じて世の中に伝えられるもので、その見返りとしてメディアからお金をいただくもの。だから、メディアから自立して自分のプリントを売るなどという行為は許されないものだったらしい。

 木村伊兵衛という写真家が、もともと戦争の宣伝工作を専門とするメディアの主力写真家であったことに関して、戦後の日本写真界では沈黙しているようなところがある。あの時代の流れでは、しょうがないという言葉で。

 もちろん、正面から軍事政権と対立できる時代ではなかった。しかし、積極的にメディアの宣伝工作に便乗するのと、なんとか違う形で、ぎりぎりの抵抗を見せるのでは、表現者としての資質に大きな違いがある。

 たとえば濱谷浩もまた、1941年、東方社に参加することとなって対外宣伝誌『FRONT』のため陸海軍関係の撮影に従事するが、疑問をもち退社。その後、文化人らの肖像撮影を手がけ、1944年新潟県に移って、ここを拠点に日本海側の風土や人々の営みを記録し、「裏日本」という形にまとめた。

 戦時下において、日本を気高く紹介することが写真家のミッションであったわけだが、濱谷浩は、木村伊兵衛衛のように安易に戦争賛美の流れに乗らず、表現者としての矜恃を保ち続けた。

 ユージンスミスの影響を誰よりも受けた森永純も同じで、彼は、表現物でさえ娯楽と無聊の慰めになってしまった消費社会と交わらず、ドブ川の写真集の本の後、ひたすら「波」だけを30年以上にわたって撮り続け、私と出会った頃は、写真界からは、ほとんど忘れられた存在になっていた。

 彼が、生涯にわたって形にした本は、東京のドブ川と、私が作ったWAVEの2冊だけである。

 この森永純も、もしも日本の戦後写真界の主要な評価軸が、木村伊兵衛ではなく安井仲治であったなら、まったく違う写真家人生だったかもしれない。

(つづく) 

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