第1276回 量子コンピューターの時代の思考特性とは?

花背の三本杉。(京都府京都市左京区

 3日前のイベントの後の懇親会で、「花背(京都市左京区)の三本杉のところに白鷹竜王の碑がありますが、あれは何ですか?」という質問を受けた。この偶発的で、ローカルで、普通の人にとってはどうでもよい問いから、かなり面白い結果が導かれ、量子コンピューターの時代の思考特性や課題に対するアプローチについて書いてみた。

 世間の目先のことに忙しい人にとってはどうでもいい話だけれども、やはり、何をどう考えて、どうアウトプットするか、ということの積み重ねの上に、未来は築かれていくものだから。

 人類の思考特性に変化が起きる時、人類の歴史に変化が起きる。

 思考特性の変化は、環境変化によって生じるが、人類の環境は、自然環境にくわえて、人類が作り出した人工環境も含まれる。

 現在を生きる私たちの思考特性は、近代化の中で育まれてきた。

 いわゆる近代的思考は、17世紀の前半、最後の宗教戦争とされるドイツ30年戦争に志願しながら、その実態に失望したデカルトが、『方法序説』の中で始めた思考方法をルーツとしている。

 当時は、宗教的盲信の対立のなかで宗教戦争が泥沼化していた時代だが、デカルトは、世の中に広まっている色々な考えに盲目的に追従することを否定したうえで、自分の理性の力で、真理を見極める方法を提示しようとした。

 その方法論は、まず思考の対象をよりよく理解するために、「多数の小部分に分割すること」が必要だとし、最初は単純な認識であってもそれを複雑な認識へと発展させ、最後に完全な列挙と、広範な再検討をすることが必要であるとした。

 こうした理性の使い方が、その後の学問の方法論となる。その結果どうなっていったかというと、学問の細分化が起こり、それぞれの分野の専門家は増えたが、細部にわたって複雑化が促進されるばかりで、最後に行うべき広範な再検討のための統合的で巨視的な視点が、どの学問分野でも育まれにくいという問題に直面することになってしまった。

 ところで、現代社会が抱える問題の複雑さに対応するために、従来の古典的コンピューターの限界が指摘され、それに変わる新しい量子コンピューターというものが、少しずつ話題になってきた。

 この仕組みについて色々と説明されてはいるものの、まだ実用化されていない技術ゆえに、それらの説明も、わかるようで、よくわからないというものが多い。

 よく説明される内容が、古典コンピューターの情報単位は、「0」「1」の状態の「どちらか」しか取ることはできないが、量子コンピューターでは、量子力学の「重ね合わせの原理」を利用することで「0」「1」の「どちらも」取りながら計算を行うことができるので、膨大な情報量を、早く計算できるというものだ。

 この説明だとなんだかよくわからないが、古典コンピュータは、一つずつ、0と1の配列を確定させた条件の入力を行い、一つずつ計算行うことで一つずつの確定的な解答を出力し、膨大に出力された一つずつの確定的な解答を足して最終的な正解を得るという方法がとられるということだ。

 これは、デカルト的思考であり、多数の小部分の分析解答を確定させ、その小部分を足し合わせて全体の分析解答を確定させるという思考の延長上にある方法だ。 

 この方法は、足し合わせる小部分の数が少ないと、わりと簡単に、正しく全体の解答を得られるが、それが多くなりすぎると、複雑すぎて大変な作業になる。つまり簡単な問いならすぐに答えを用意できるが、複雑な問いに対して、順番に一つずつチェックしていくと、全体的な視点を見失いがちになる。

 それに対して量子コンピュータは、入力される個々の一つひとつをチェックしていくという手順は踏まない。

 全体の入力に対して、条件付けを行って、それに反応するものを浮かび上がらせる。

 その浮かび上がったものは、解答の可能性が高い状態にすぎないが、この条件付けを何度か繰り返して、その可能性を絞りこんでいくという手順となる。

 こうした課題解決のための「やり方」の違いは、コンピューター言語ではアルゴリズムの違いということらしいが、量子コンピューターは、一つひとつのチェックには向いている0か1かという古典コンピューターのビットではない量子ビットで計算をするので、量子コンピュータに対応したアルゴリズムが必要になる。

 アルゴリズム(やり方)の違いは、コンピューターの違いという以前に、思考特性の違いだ。

 そして、量子コンピュータの完成を待たずして、この新しい思考特性は、私たちの頭に、少しずつ準備されてきている。

 それは、ネット検索において現れる。

 たとえば、一つの検索ワードを入力すると、広告も含めて膨大な記事が、ずらりと並ぶ。

 その状態のまま、上から順に一つひとつ中身を検証して、これは求めている情報かどうか、正しい情報かどうか検証して判断していくとなると、膨大な作業になる。

 だから、検索ワードに条件付けを行う。この条件付けによって、自分が求めているものの可能性の幅が狭まっていく。

 検索エンジンが拾い集めてくる情報は、正しいとも間違っているとも言えないカオス状態であり、その中から絞り込んでいくための「やり方」(アルゴリズム)がなければ、カオスのままだ。

 うまく検索エンジンを使いこなせる人は、「検索ワード」による条件付けが優れている。

 現在は、アカデミズムの世界に身を置かなくても、学者の論文をネット上で読むことができる。

 従来は、特定分野の研究において、一つひとつ論文を読んで検証していくという気の遠くなるような作業が必要だった。しかし、現在、何かを探求している人は、検索ワードによって、学者が書いている論文にアクセスし、解答を得るための情報を絞り込んでいくことが可能になっている。

 その際には、絞り込みの条件付けが必要になる。これによって解答への到達速度が、大きく変わってくる。

 カオスの中から条件付けによって解答を絞りこんでいって、アウトプットを秩序化していく流れは、聖書の創世記や、古事記の国生みの記述と似たところがある。

 すなわち、デカルトが始めた近代的思考だけで世界を読み解くことは、そろそろ限界に達しており、次なる思考へ移行しつつあるが、それは、太古の昔に人類が創り出した神話的思考に似たものとなるだろう。

 近代科学の発展によって、膨大な情報、膨大な物質がすでに存在しており、それらの潜在的に準備されているものをどう組み合わせるかによって、新しい局面が拓かれる可能性がある。

 このことについて、数日前に経験した一つの解答への導きを紹介したい。それは、偶発的でありながら、必然性が準備されていた出来事であった。

 11月21日に、京都のIMPACT HUB KYOTOで、「時を超えた世界を旅するために」というスライドトークを行った。

 その内容を簡単に言うと、縄文時代からの歴史の流れを、地理や地勢などを軸に置きながら、それらと信仰心の関わりなどと重ね合わせて説明しながら、私が撮り続けているピンホール写真とともに、映像と言葉のよって日本の歴史の古層を感じてもらうのが趣旨だった。

 2時間半ほど休憩無しで行った後の懇親会で、IMPACT HUB KYOTOのスタッフが、「前から気になっていたことがあって、質問していいですか?」と声をかけてきた。

 京都の貴船神社の北に、花背という土地がある。そのスタッフは、IMPACT HUB KYOTOの事業関係で何度も花背に通っていて、この地にある有名な三本杉(日本で一番背が高い)がある場所に、「白鷹龍王」と刻まれた石碑が置かれていることに気づいた。そして、これは一体何を意味するのか?と気になって調べてみても、この大杉を神木としている峰定寺でもよくわからないようだし、日本の他地域でも、「白鷹龍王」という存在が見当たらない。

 私は、ほとんどの人がスルーしてしまうことに引っかかりを感じている人から、時々、このような質問を受けることがあるが、そういう時は、不可思議な縁によって何かしら大事なメッセージを受けているような感覚を覚える。

 ふつうは、大きな杉を見に行けば、「すごいねえ」で終わりだ。

 私は、どこにも情報がない白鷹龍王」という存在についての知見は持っていなかったが、花背という場所の特殊性は理解していた。

 花背は、山深いところにあるように思われているが、このあたりは、桂川安曇川の源流であるし、少し南に行けば、貴船神社の奥宮があり、貴船川、賀茂川を下っていくことで桂川とも合流できる。

 また安曇川は、近江高島まで流れており、近江高島から若狭湾の小浜まではすぐなので、このルートは、かつては日本海と都を結ぶ鯖街道として人の往来が盛んだった。

 また、桂川は、花背から西に流れ、京北を通って亀岡の盆地に至り、亀岡から保津川渓谷を抜けて京都の嵐山を経て、現在、石清水八幡のあるところ(かつては巨椋池がここにあり、多くの船舶が停泊していた)で、宇治川、木津川と合流し淀川となって瀬戸内海へと注ぐ。

 また、桂川の流れる亀岡盆地では、盆地の北に由良川が流れてきており、この由良川は、舞鶴市宮津市の境で若狭湾へと注ぐ。さらに、由良川は、兵庫県の氷上で、加古川の上流部と近づき、加古川を下ると播磨灘へと至る。由良川加古川で、日本海から瀬戸内海に抜けるルートは、日本で最も標高の低い分水嶺(90mほど)である。若狭湾の小浜から近江高島に出て、琵琶湖もしくは安曇川経由で京都から大阪湾に抜けるルートも、交通路としては、非常に利便性が高い。

 そういうことで、花背というのは、安曇川桂川由良川加古川貴船川、鴨川などを結ぶ河川交通ネットワークの要の位置にある。

 花背のすぐ近くに、片波の巨大杉の群落があるが、ここは平安京を建設する時の木材の供給地であり、樹齢1000年の巨大杉が数多く残っていることで知られているが、ここからの木材は、当然ながら、河川によって平安京に運ばれた。

花背からすぐのところに、平安京建設のための材木供給地であった、片波川の巨大伏条台杉の密集地帯がある。

 また、花背周辺から近江高島まで流れる安曇川は、古代、安曇氏が拠点としていた。

 花背の南の貴船神社の奥宮も、安曇氏の祖神、綿津見の娘である玉依姫が、川を遡って黄船で辿り着いた場所だという伝承があり、これが、貴船(黄船)神社という名前の由来である。

 これらの事情を知ったうえで、古代海人の安曇氏の祖神である綿津見の別名が神龍王であることを重ねると、同じ竜王である白鷹龍王」は、安曇氏の1勢力か1リーダーではないかと思われ、私に質問をくれたスタッフに、そのように答えた。安曇氏というのは、特定血族の集団ではなく、いくつもの海人の集団の連合体である。

 そして家に帰り、間違った答えを伝えたかもしれないので、ちょっと調べてみようと思って、ネット検索したのだが、「白鷹龍王」について説明するサイトは、どこにもない。

 しかし、「白鷹竜王」という言葉にヒットするブログが、花背以外に、一つだけあった。

 このブログは、枚方市に住む女性が、枚方市の公園紹介をするもので、公園に設置されている遊具のことや、ベンチやトイレの有る無しなどを紹介しているのだが、このブログで取り上げられている金崎公園で、フェンスに囲まれた中に「白鷹龍王」の碑があると写真付きで紹介されている。

https://www.hira2.jp/tag/%E9%87%91%EF%A8%91%E5%85%AC%E5%9C%92

 ただそれだけの内容だが、私が注目したのは、この金崎公園のある場所で、ここは、第26代継体天皇が、即位して最初に宮を築いた樟葉なのだ。

第26代継体天皇が、即位して最初に宮を築いた樟葉宮。この場所で、第50代桓武天皇は即位儀礼を行い、今は、桓武天皇父、光仁天皇を祀る交野天神社になっている。(大阪府枚方市。)

 そして、この日に行ったImpact hubでのスライドトークでは、継体天皇の時代の重要性について話をしたところだった。

 継体天皇は、現在の天皇から血縁で遡れるもっとも古い天皇(前の天皇と血統が断絶している)であり、彼が即位した西暦500年ごろは、日本史の大きな転換期だった。

 507年、継体天皇は、大伴氏や物部氏の強い推挙により、58歳という高齢で、急遽、26代天皇として即位する。

 この4年前の503年、海の向こうの朝鮮半島に、新羅という国家が誕生した。

 古代、朝鮮半島は、百済新羅高句麗という三つの国が治めて互いに争っていたが、7世紀の後半に新羅朝鮮半島を統一したことは学校教育でも習う。日本が、663年の白村江の戦いで、唐と新羅の連合軍に大敗を喫したからだ。

 しかし、実際には新羅の地の豪族は、5世紀後半まで北の高句麗への従属的立場にすぎなかった。新羅の興隆は、中国王朝が国境を接する高句麗の勢力拡大に悩まされるようになり、高句麗を南から攻撃できる新羅の地を重視し、支援をし続けたからである。

 その時期が、継体天皇の即位と重なっている。

 勢力を拡大させる新羅は、日本が経営に携わっていた朝鮮半島南部の任那の地に侵攻するようになり、最終的には、奪い取ることになる。

 527年継体天皇の命で、近江毛野は、6万人の兵を率いて、新羅に奪われた地を回復するため、任那へ向かって出発した。

 継体天皇の息子の欽明天皇は、任那を取り返すことを遺言にし、その次の敏達天皇も執念を燃やし、敏達天皇の妃であった推古天皇の時代も、西暦600年と601年に、新羅征伐計画が合わせて三度あった。

 西暦500年頃からの日本の歴史の中で、新羅への対応が、大きなウエイトを占めるようになっていくのだが、海を越えた朝鮮半島新羅と戦うためには、船を作ったり船を操る海人の力が重要になる。

 継体天皇が生まれた場所は、近江高島とされているが、ここは、海人の安曇氏が拠点としていた安曇川が琵琶湖とつながる場所であり、若狭湾の小浜にも近い。

 安曇氏が、新羅との戦争で大きな役割を果たしていたであろうことは、663年の白村江の戦いの敗戦の時に、将軍であった安曇比羅夫が戦死していることからも伺える。

 安曇比羅夫は、安曇山背比羅夫とも表記されており、山背国に本貫があったと考えられるが、山背国というのは、現在の京都市周辺である。

 近江高島出身の豪族、継体天皇の即位には、そうした歴史事情が関係しているはずであり、継体天皇は、安曇氏と関わりが深かったはずだ。

 即位後、奈良ではなく、樟葉(枚方)、筒城(京田辺)、弟国(向日山)に宮を築いたことが日本古代史の謎になっているが、これらの地は、賀茂川桂川宇治川、木津川、淀川の水上交通の要である。

 ここで、継体天皇が最初に宮を築いた樟葉の地の金崎公園について説明しているブログに話を戻すが、このブログの書き手は、とくに歴史のことは意識せずに、公園内に存在する遊具その他の設備を説明した後に、公園の片隅のフェンスに囲まれたところに、「白鷹竜王」だけでなく、「白竜王」の碑があると写真付きで紹介している。

 「白鷹竜王」の系譜や活動は謎だが、「白竜王」は、長野の安曇野の小太郎伝説に登場する。

 小太郎伝説というのは、かつては湖だった松本盆地から水の出口を作って、平地が作られたことを伝えているが、この日のスライドトークでは、松本盆地から水がなくなった歴史的事実や、海人との関係についても言及していた。

 小太郎伝説の中で白竜王は、小太郎の父親である。そして、白竜王綿津見神(わたつみのかみ)の生まれ変わりで、小太郎は穂高見神(ほたかみのかみ)の生まれ変わりとされている。

 安曇野から松本盆地は雪山に囲まれていて、雪解け水が流れ込む河川が多くあるけれど、出ていく川は犀川しかない。

 そして、この犀川は、穂高神社(安曇氏の氏神)の近くから、細い谷に沿って北上し、千曲川に合流するが、この細い谷が落石などで埋まると、水はどこにも出ていけない。このあたりは、フォッサマグナの西端に近く、地震も多いところだ。

 小太郎伝説では、「小太郎は母親の犀竜に乗って山清路の巨岩や久米路橋の岩山を突き破り、日本海へ至る川筋を作った。」と記述されているが、おそらく、犀竜というのは犀川の象徴で、この細い谷の岩を取り除く作業によって、水の流れを作り出したということだろう。

 その場所が穂高神社のすぐ近くということもあり、おそらく安曇氏が、その事業を行った。谷を拓いて水を流すことで、海人の安曇氏は、安曇野や松本あたりから千曲川に抜け、日本海に出ることが可能になる。

 その安曇氏の祖神である綿津見の生まれ変わりが白竜王で、継体天皇の樟葉宮があった場所の金崎公園に、白鷹竜王と一緒に碑が残されている。

 上に述べたように、花背の地は安曇川の源流で、安曇氏と関係があると思われるので、花背に碑が残る白鷹竜王も、安曇氏関係であると想定することは、十分に可能である。

 そして、これらの事実から、継体天皇の背後に安曇氏の勢力があったことも想像でき、大伴氏や物部氏の強い推挙により第26代天皇に即位することになった理由の一つも、そこにあるだろうと考えられる。

 白竜王と白鷹竜王の碑がある樟葉の金﨑公園は、調べてみると、溜池を埋めて整備された公園であり、これらの碑は、おそらく、その溜池のあたりにあった物なのだろう。

 ただ、この金崎公園のすぐ北に安養寺があり、明治の廃仏毀釈で寺の領地は大きく削られたから、もしかしたら、かつては、溜池だった金崎公園あたりまで安養寺の領地だったかもしれない。

 というのは、現在は浄土宗の安養寺だが、開山は、行基となっているからだ。

 奈良時代初期、行基は、行基集団を形成し、畿内を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く人々に仏教を説き、さらには、各地に、道場や寺院、溜池、溝と堀、橋などを作るなど、困窮者の救済や社会事業を指導した。当初、朝廷から度々弾圧や禁圧を受けた時、行基を守ったのが修験道行者だった。 

 行基集団の活動が奈良時代初期、朝廷から弾圧を受けた理由は、律令制の基本は、人頭税であり、農民が土地を離れて活動することを許さなかったからだ。

 そして、花背の三本杉は、現在、峰定寺の神木だが、峰定寺も、修験道系の山岳寺院である。

 修験の祖の役小角は、賀茂氏の出身であり、修行を行ったり寺院を作った聖域は、山岳地であるけれど河川交通とも関わりが深い。

 鴨川源流の雲ヶ畑にある志明院をはじめとして、淀川沿いの箕面、石川沿いの葛城山大和川沿いの生駒山地、そして吉野川沿いの吉野の地などがそうだ。

 また、修験者たちに守られた行基は、日本地図を作成したという伝承がある。当時作成されたものは現存しておらず、真偽は不明であるが、江戸時代伊能忠敬が現われる以前の日本地図は、この行基図を元にしていたともされる。

 行基は、全国的な情報ネットワークを持っていた可能性があり、そのネットワークの構築は、河川交通を抜きには難しい。

 IMPACT HUBのスタッフから受けた問い「花背の白鷹竜王って何ですか?」について、花背という場所の地理的、地勢的な条件から想定した「安曇氏ではないか」という私の説は、枚方市に住む女性が、枚方の公園紹介のために書いたブログの中に、白鷹竜王の碑が紹介されていて、しかも、安曇氏の祖神である綿津見の生まれ変わりとされる白竜王の碑と一緒にあるという事実によって、かなり説得力のあるものになった。

 そして、この文章を、私はブログとして残すので、今後、花背の三本杉を訪れて、そこに残る白鷹竜王の碑が何となく気にかかってネット検索すると、現時点では、花背の三本杉以外では、枚方の金崎公園の紹介ブログと、私が書いたこの文章しかヒットしない。

 それでも、非常に面白いと思うのは、冒頭に書いた真理探求の方法として、近代的思考に基づく古典的コンピューターから、量子コンピューター的な思考への変容が、このたびの私の思考体験にも現れているからだ。

 というのは、金崎公園の紹介ブログを書いた人は、歴史を探求する意図は持っておらず、ただ「ステキ」という感想だけ書き残しており、主に公園の情報が欲しい人には役立つブログだが、古典的コンピューター的思考の歴史研究家にとって、検証の対象にすらならず、0か1の振り分けで、0になる。

 しかし私のように、樟葉という地名や、白鷹竜王という”条件付け”を行う人間によって、非常に意味のある情報へと”位相反転”する場合がある。つまり、条件付けによって、0にも1にも成りうる。

 この”条件付け”が、量子コンピュータアルゴリズムに該当する。

 古典コンピュータ的な世界、つまり近代思考に基づいた学問研究においては、一つ一つアウトプットされた情報が正しいものであるかどうか吟味され、その正しいアウトプットを合算して正解を求めるというアプローチがなされる。

 だから、様々な学者が書いた論文は、厳密に精査され、その論文が有効なものかどうか判断されるまでに多くの労力が注がれる。単純な問いに対する解答であれば、その方法は有効かもしれないが、問いが複雑になると、全体のごく一部にすぎない細部において、とりあえず正しいと思われる論文が、無限に生産されるばかりで、その細部を統合する全体に対する見通しは、混沌を極めるばかりだ。

 このインターネット時代、無限のアウトプットが存在し、そのどれもが、0にも1にも成り得る”量子的重ね合わせ”の状態で存在している。

 それらのアウトプットをどう組み合わせて活用するかという、その検索者のスタンスによって、つまり検索の条件付け次第で、全体に対する解答が変わってくる。

 そして、条件付けには、その人の経験が大きく関わってくる。

 特定分野において力を発揮する量子コンピュータアルゴリズムを作るうえでも、その分野の経験者のコミットメントが必要不可欠だろう。

 ならば、歴史探求における経験とは、どんなものだろう?

 歴史書をたくさん読んだり、歴史に関する論文を膨大に書いたり読んだりするだけでは、歴史の経験ではなく、もしかしたら近代的思考の範疇で記述された歴史説明を頭に刷り込んでいるだけ、という可能性もある。

 歴史はアカデミズムの世界の中に閉じているわけではない。

 たとえば、会社を作ったり、マネジメントをしたり、人を育てたり、様々な創造活動も、人間や人間社会を知るという意味において、大いなる歴史体験だ。異なる国の異なる文化を経験することも同じだ。こうした体験を積まずに、つまり、人間や社会のことに対する認識を深めずに、歴史研究をしても、偏ったものになる可能性がある。

 歴史は私たちの足元にあり、私たちが生きている環境の中にある。生きている環境世界のものは、どんな断片的なものでも、教科書検定でバイアスのかけられた知識情報より、歴史を深めるために有効なものもある。

 歴史の経験は、そうした生身の身体を通した人間世界全体のフィールドワークを抜きにはありえない。

 フィールドワークを通じて、どれだけ、言うに言われぬ歴史の声を身体に蓄えているかによって、歴史の真相を読み解くための「検索」のやり方が変わってくる。

 この場合の歴史とは、学問の1ジャンルではなく、人間がどこから来て、どこへ行くのかという普遍的な哲学的問いにつながっている探求である。

 人類の未来というのは、技術以前に、哲学(宇宙観、世界観、人生観)によって準備されていく。

 

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