第1226回 古代、海人の拠点だった京都

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月読神の旧鎮座地から愛宕山を望む

 京都の松尾大社駅から桂川沿いを上流に向かうと観光客で溢れる嵐山だが、松尾大社から下流に500mくらい歩くだけで、京都でもっとも風光明媚な場所に至る。桂川が大きく蛇行するポイントで川幅が広く、空の広がりも素晴らしく、比叡山愛宕山雄大な景色を望むことができる。

 この場所は、桂川西芳寺川が合流する場所で、現在の松尾中学校の建設時に、弥生時代から古墳時代後期まで600年もの長きにわたる松室遺跡が発見された。

 そして、この合流時点には、かつては月読神社があった。

 月読神社は、現在、松尾大社から松尾山に沿って南に400mくらい歩いたところに鎮座しており、観光客はあまり訪れないが、神社めぐりの好きな人にとっては隠れスポットだ。

 松尾大社の創建は701年で、平安京ができる100年ほど前から存在していたが、月読神社の創建は5世紀末で、日本でも最古級の神社である。

 月読神社は、九州の壱岐島から勧請され、その時、亀卜という亀の甲羅で吉兆を占う専門の神職もやってきて、日本の神祇官制度の中で重要な役割を担うようになった。弥生時代は、鹿の肩甲骨を使った占いを行っていたが、5世紀後半に入っていた亀卜がそれに取ってかわり、重要な政策決定で重んじられた。

 なので、この月読神社は、日本の祭政一致の要である神道儀礼の始まりにおいて重要な役割を果たした神社ということになる。

 伊勢にも月読神を祀る二つの神社があるが、伊勢の月読神は、古事記日本書紀が完成した後、皇祖神のアマテラス神の弟神としての月読神が位置付けが決まってからのものであり、畿内においては、京都の月読神社が先である。

 今でこそ隣の松尾大社に比べて小ぶりな印象しかない月読神社だが、ここは名神大社であり、古代において特別の聖域だった。

 現在、月読神社が鎮座する場所を訪れても、その重要性のリアリティを感じられないが、本来の鎮座地に立つと強く実感できる。

 月読神社は、856年以来、現在の地に遷座されたのだが、その理由は桂川の氾濫だった。

 しかし、桂川は、たびたび氾濫していたはずであり、神の聖域は、流されれば再建することを前提に作られていたと思う。

 熊野大社もそうで、明治以降に遷座された現在の熊野大社を訪れても古代の息吹は感じられないが、かつて社殿が鎮座していた熊野川・音無川・岩田川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)に立てば、そこが神の聖域だったことは強く感じられる。

 松尾大社から桂川を遡った亀岡の地にも月読神を祀る小川月神社がある。ここは、広大な河川敷の中に小さな社が鎮座しているだけだが、その空間が素晴らしい。社殿の立派さよりも、その場所が醸し出す空気の方が重要であり、その空気が、聖域の神聖さを高める。

 京都の月読神社の旧鎮座地は、今でも吾田神町という地名で、吾田というのは阿多隼人の”あた”であり、この場所もまた、隼人舞発祥の地、京田辺の月読神社と同じく隼人の居住地だったと思われる。

 そして、この吾田神町から西芳寺川を遡っていくと、苔寺で有名な西芳寺がある。

 西芳寺は、鎌倉時代は浄土宗、室町時代から臨済宗の寺になったが、もともとは聖徳太子の別荘で、奈良時代行基が寺にあらため畿内49院の一つだった。

 この西方寺川沿いを遡っていくと、まさに秘境で、吉野の山中を訪れているような雰囲気がある。そして、この川をさらに遡ったところに四十三基の墳群があり、京都盆地の群集墳のなかで最も密集度が高い地帯となっている。

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西芳寺

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西芳寺川古墳群

 この古墳は、古墳時代後期の6世紀以降のもので、ちょうど、壱岐から月読神がやってきた時と重なるから、隼人系の海人たちのものではないだろうか。

 西方寺古墳群と、現在の月読神社と、隼人と関連のある地名の過去の月読神社の鎮座地が、東西のライン上に並んでいる。

 隼人は、南九州の海人というイメージがあるが、北九州の宗像大社の宗像氏の祖は、アタカタスミ(吾田片隅)であり、同族である。

 九州の壱岐島から月神畿内に入ってきた5世紀末の同じ時期に、対馬から日神が畿内に入ってきている。対馬には和多都美神社が鎮座するが、わたつみは、海人の安曇氏の祖神である。

 壱岐月神を祀っていた海人は隼人系で、対馬で日神を祀っていた海人が安曇系だったのだろう。

 隼人という呼び名は奈良時代に入ってからのものだ。平安京など古代の都は、東西南北を守るための四神相応というコスモロジーがあり、南を守るのが朱雀である。この朱雀は、古代中国においては鳥隼、つまり隼だった。

 その思想を取り入れた古代日本において、都の南を守るために、海人を配置した。それが隼人ということになった。京田辺の月読神社は、平安京の朱雀通りの真南に位置しており、ここは隼人の居住地だった。

 この海人は、呪力を備えているとされ、朝廷の警護などにおいて活躍していた。

 なぜ彼らが月神を信仰していたかというと、近海を舞台に活動する海人にとって月の引力による干満差が重要だからだ。

 とくに瀬戸内海を航海する場合、太平洋と瀬戸内海の干満の時間が違うため、潮の流れが瀬戸内海から太平洋に向かう時と、その逆の時が生じる。そのことを熟知していないと、船を進めることができない。

 松尾大社主祭神は、大山咋神(おおやまぐいのかみ)が知られているが、宗像三神の市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)も主祭神であり、嵐山の渡月橋のところにも、天智天皇の時代に勧請されたという櫟谷宗像神社(いちたにむなかたじんじゃ)が鎮座している。

 隼人と名付けられる前、南九州から瀬戸内海、そして大阪湾から淀川を遡り、京都から亀岡に至るまで活動の幅を広げていた海人が存在し、歴史上、大きな役割を担っていた。

 

 

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