第1230回 月読神と、古代海人との関係

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 京都の松尾大社の近く、桂川西芳寺川が合流するところが月読神社の旧鎮座で、比叡山愛宕山を同時に望む絶景の地だ。ここは今も吾田神という地名で、アタは、古代の南九州の海人のこと。

 京都の月読神は、5世紀の末に壱岐島から勧請されて、その時に亀卜という亀の甲羅を用いた占いが持たらされ、これが日本の神道儀礼において朝廷主導で物事の吉兆を占う大切な手段となった。

 月読神と亀卜を畿内にもってきたのは、アタの海人と壱岐の祭祀者だった。

 月読神はよく知られている神であるが、謎は多く、この神を祀っている神社の数も少ないし、古事記日本書紀でもエピソードがほとんどない。

 唯一、日本書紀において月読神が保食神を殺す物語があり、これは、古事記においてスサノオが大宜津比売を殺すエピソードと同じだ。

 「陸を向いて口から飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し」て料理を作っていた保食神に腹をたてた月読神が、保食神を殺してしまう。すると、頭からは牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦と大豆と小豆が生まれた。

 これについて、専門家による色々な解釈があるが、どの解釈もうまく説明できていない。

 私が思うに、このエピソードが伝えている事実は明確だ。保食神は、人間が手を加えていない原野から取れるもので料理を作っているが、月読神によって殺された後、あきらかに肥沃な存在となって、そこから様々な食物が生まれている。

 それをアマテラス大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とし、その種は秋に実ったとエピソードの続きがあるので、この物語は、多くの人々が養えるようなしっかりとした生産体制ができた状況を示している。

 これが一体何を示しているかというと、おそらく洪水氾濫であり、古代エジプト文明のように、ナイル川の氾濫によって土地が豊かになっていく物語と重なっている。

 スサノオは、水と風に関係する神なので、嵐を起こすこともある。そして月は、満月と新月のあいだで大きな干満差を引きおこし、洪水を起こすのだ。

 アマゾンのボロロッカが有名だが、雨季に川の水量が多くなっていると、大量の水が満潮になって押し寄せる海水と衝突し、逆流し、内陸にも洪水による甚大な被害がもたらされる。現在はダムによって川の水量が減っているので、あまり実感できないが、古代において、こういうことは珍しいことではなかった。

 京都から桂川を遡ると、亀岡に月読神の聖域がいくつか残っている。

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 桂川のほとりに建つ小川月神社は、何度も洪水に流されてきたが、あえてそういう場所に鎮座している。現在は小さな祠しかないが、ここは名神大社であり、その歴史は、近くにある名神大社出雲大神宮より古く、氏子総代保管の「丹波国桑田郡小川月神社之事」では、「神代よりの旧地なり」と記されている。

 京都の桂川流域や亀岡が秦氏との関係が深い土地なので、この神社も、秦氏との関係を指摘する人が多いが、それは間違っていると思う。

 というのは、この小川月神社から桂川の対岸にも月読神社が鎮座するが、この西北場1.5km、亀岡盆地北西部の丘陵南斜面に拝田古墳群があり、前方後円墳1基(16号墳)・円墳16基の計17基が存在する。このうち、前方後円墳の16号墳は、石棚付きの石室を備えている。

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 石棚付きの石室は、和歌山県の紀ノ川河口域に特徴的に見られるものだが、瀬戸内海を取り囲むように豊後、安芸、讃岐、伊予、播磨、淡路にも築かれ、それ以外の地域では、亀岡と福井の敦賀だけに存在する。この分布は、明らかに、海人との関わりが考えられるが、日本書紀ヤマトタケルによって征伐されたとされる蝦夷(東北の住民とは限らない)の配置先で、その蝦夷たちが、あまりにも”さわぐ”ので、さえぎとなり佐伯部となったという記述の場所とも重なる。今でも、豊後や安芸にも佐伯の地名が残るが、讃岐は空海の出身地で、空海も佐伯氏である。兵庫の播磨町も佐伯姓が非常に多い。そして、亀岡で保食神主祭神とする稗田野神社周辺が佐伯郷であり、この神社の祭である女夜這いの佐伯灯篭祭りは、中世時代から有名だった。

 稗田野神社の本殿の背後は、弥生時代の祭祀場であり、3年ほど前、この周辺で、巨大な古代都市遺跡が発見された。

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稗田野神社の本殿背後。ここは弥生時代の祭祀場だった。

 そして、この佐伯郷にある稗田野神社の真北1kmのところの山中に鹿野古墳群があり、ここからも6つの石棚付石室が見つかっている。

 鹿野古墳群は、1872年にイギリスのウィリアム・ゴーランドが調査しており、首飾りや馬具や剣や土器の欠片まで、大切にイギリスに持ち帰っている。

 さらに不思議なことに、鹿野古墳群から真北の小金岐(こかなげ)古墳群は、行者山の東斜面に200基以上の古墳が分布する京都府最大の群集墳だが、ここからも石棚付石室が見つかっている。

 この小金岐古墳群の真北1.5kmが、上に述べや拝田古墳群であり、石棚付石室のある三つの古墳群と稗田野神社の4箇所が、南北に、1.5km、1km、1kmの間隔をあけて並んでいる。

 しかも、この南北のラインは、この西4kmの出雲大神宮と鍬山神社という亀岡を代表する大国主の聖域を結ぶラインと平行である。

 この二つの出雲系の神社の近くにも古墳があるが、出雲大神宮は元出雲とされ、鍬山神社は、泥湖であった亀岡盆地の開発と関係があり、この二つの聖域が、秦氏大国主を助けて国づくりを行なったスクナヒコを祀っている)とつながっている。

 そして、さらに不思議なことに、この鍬山神社の東10kmのところが、上に述べた京都の月読神社なのである。この周辺は、弥生時代から古墳時代後期まで600年間続いた松室遺跡でもある。

 そして、この東西のライン上、京都の月読神社の真西1kmほどのところには、京都盆地で最大の群集墳がある。

 また、月読神社の旧鎮座地の北800m、桂川の対岸が梅宮大社であり、この神社は、藤原不比等の後妻である県犬養三千代が、木津川流域の綴喜郡井手町に祀っていたものを、平安時代嵯峨天皇の皇后の橘嘉智子が、ここに遷座したものであるが、「橘」というのは県犬養氏が賜った姓である。

 実は、亀岡の佐伯郷にある稗田野神社の真南2.4km、犬飼川の河岸に、犬飼天満宮が鎮座しているのだが、このあたりに、犬飼衆がいたと考えられている。

 犬飼衆とは何なのか?

 隼人は、犬吠という邪霊を払う呪術を行なっており、朝廷警護の際に、犬を用いていた。

 また、日本書紀垂仁紀・石上神宮の件に次のような文章がある。

「昔、垂仁天皇の頃、丹波国桑田郡の人に甕襲(みかそ)という人物がいた。甕襲の家には足往(あゆき)という名の犬がいた。この犬は山の獣のむじなを食い殺した。獣の腹に八尺瓊の勾玉があり、それを献上した。この宝はいま石上神宮(現奈良県天理市)にある。」

 丹波国桑田郡というのは亀岡であり、ここに書かれている場所が、犬飼天満宮あたりだと考えられる。 

 この日本書紀の記録は、犬を使った狩猟(犬山)の日本最古の記録と説明されるが、たぶんそういうことではなく、八尺瓊の勾玉という言葉からわかるように、祭事の変化のことを抽象化している。

 甕というのは、須恵器の祭祀器であり、高貴な人が亡くなった時の殉死の代わりに埴輪が埋められたように、洪水などの禍に対する人身御供をやめて、新しい祭祀に切り替わった時期があった。

 須恵器は5世紀前半に伝わった陶器製造技術であり、それまでの陶器と違って水が洩れない硬い器であり、酒や食物などを神に供える祭祀道具として用いられることが多かった。上に述べた石棚付きの古墳などの副葬品としても大量に出土している。

 そうした新しい文化知識を日本に伝えるうえで海人の活躍があったが、犬飼衆もまた、そうした人々のなかで、特定の祭祀の役割を担っていたのだろう。

 亀岡に月読神の聖地が多いのは、この地が、石棚付きの石室に見られるように、瀬戸内海を活躍の場にした海人が、淀川から桂川を遡って入り込んできたからだ。

 (石棚付石室のある拝田古墳から真西に6.4kmの薮田神社も月読神を祭り、周辺には古墳がある)

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薮田神社

 瀬戸内海は、太平洋との干満の時間差が潮汐に大きな影響を与えるので、月を読まずして航海はできない。

 隼人とか犬飼、石棚付き石室と関わりの深い紀氏、宗像氏や和邇氏など後になってからの役割分担で名前が様々に派生していったものの、起源は、南九州の「あた」と呼ばれる海人だったと思われる。

 海人の宗像氏と和邇氏の祖は阿田片隅で、同じである。

 この「あた」の女神が、神吾田津姫という別名を持つコノハナサクヤヒメであり、天孫降臨のニニギと結ばれた。

 ニニギは、新たな祭祀を日本にもたらした存在であり、「あた」という海人の女神と結ばれて、その新しい祭祀が様々な地域へと広がっていったのだ。

 そして、新しい祭祀というのは、国譲りの神話のなかで、タケミカズチが大国主に伝える言葉のとおり、「ウシハク」から「シラス」への変化だ。

 「ウシハク」というのは、強いものが全てを独占することで、「シラス」というのは、知らしめること、すなわち、みなで共有すること。

 なぜ、亀岡が、神話と深いところでつながっているかというと、古代、亀岡は極めて重要な場所だったからだ。

 桂川を通じて瀬戸内海につながる亀岡は、北部に由良川が流れており、丹波、丹後、若狭湾へとつながっている。

 また、西は平坦な道で篠山、西脇、播磨、生野、宍粟・佐用へと抜け、このルート上には鉱山資源が豊富にあり、西南に向かうと、多田銀銅山から宝塚、神戸へとつながる。また桂川の源流の花背から琵琶湖へも抜けられる。

 まさに、瀬戸内海から日本海、京都や奈良、琵琶湖方面全ての地域にアクセスする立地にある広大な盆地が亀岡だったのである。

 

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亀岡の黒い点が月読神を祀る神社で、西端の赤い点を結ぶ南北のラインは、上から拝田古墳群、小金岐古墳群、鹿野古墳群で、いずれも石棚付きの石室を持つ古墳がある。その南に稗田野神社(月読神に殺された保食神が祭神)、犬飼川沿いの犬飼天満宮。この南北のラインは、出雲大神宮と鍬山神社という大国主の代表的聖域と平行で、さらに京都の月読神社の旧地、梅宮大社、梅ヶ畑の銅鐸埋納地、沢山の西、沢の池周辺の旧石器時代からの祭祀場を結ぶラインとも平行。さらに、西の端にあるのが薮田神社で、ここも月読神を祀っており、周辺に古墳がある。

 

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