第1075回 日本の古層(21)  古代日本の先進地域、京丹後(2)。

(1)の続き 

 古代、現在の丹後、但馬、丹波はタニハと呼ばれ、丹後国丹波国が分れたのは713年である。

 タニハにおける古墳の建造時期を見ると、古墳前期には現在の京丹後が中心であり、4世紀中旬から巨大化している。日本海で3番目に大きな蛭子山古墳(全長14⒌m)が4世紀中旬、最大の網野銚子山古墳(全長207m)と2番目に大きな神明山古墳(全長190m)が、4世紀末から5世紀初頭の建造であり、5世紀中頃以降は古墳建造の中心地が丹後地方から篠山や亀岡など丹波地方に移っている。

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作山古墳。蛭子山古墳に隣接。同時代の4世紀中旬の建造。

 すなわち、タニハにおいては、4世紀中旬と5世紀中旬に変化が見られる。

 4世紀中旬にこの地に起こったこととして、古事記の中に第10代崇神天皇の時の話がある。

 そこには、日子坐王(ひこいますのみこ)=崇神天皇の弟が、旦波国に遣はされて、「玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)を殺さしめたまひき」とある。

 日子座王(ひこいますのみこ)は、紀元300年から320年生まれの人と推定され、もしそうだとすると、この鬼退治の後、京丹後の古墳が巨大化していくことになる。

 これについて、「丹後風土記残欠」では、もう少し詳しく、「青葉山中にすむ陸耳御笠(くがみみのみかさ)が、日子坐王の軍勢と由良川筋ではげしく戦い、最後、与謝の大山(現在の大江山)へ逃げこんだ」と記されている。

 大江山は、金属鉱脈が豊富で、周辺には金屋など金属にまつわる地名が多く見られる。

 玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)は、土蜘蛛とされているが、名前に御という尊称があり、現地にて崇敬されていた存在である可能性がある。さらに、谷川健一は、「神と青銅の間」の中で、「ミとかミミは先住の南方系の人々につけられた名であり、華中から華南にいた海人族で、大きな耳輪をつける風習をもち、日本に農耕文化や金属器を伝えた南方系の渡来人ではないか」と述べている。

 この鬼退治については、以前日本の古層(8)で書いた。

 https://kazetabi.hatenablog.com/entry/2019/04/24/212931

 日本海で2番目に大きな神明山古墳の麓に竹野神社があるが、祭神として日子坐王を祀っている。

 そして、タニハにおける第2の変化である5世紀中旬というのは、讃・珍・済・興・武という5世紀初頭から末葉まで中国南朝の宋に朝貢していた倭の五王の時代である。

 豊受大神を丹後から伊勢に遷した第21代雄略天皇は、倭の五王の武だとされているが、その頃から、タニハの中心は、丹後ではなくなり、篠山や亀岡に移る。

 さらに、丹後の鬼退治の伝承は、6世紀後半から7世紀初頭の聖徳太子の時代にもあった。

 河守荘三上ヶ嶽(大江山の古名)に英胡・軽足・土熊に率いられた悪鬼が、人々を苦しめたので、勅命をうけた麻呂子親王が、神仏の加護をうけ悪鬼を討ち、世は平穏にもどったというもの。

 麻呂子親王というのは第31代用明天皇(在位585−587)の第三皇子で、聖徳太子の異母弟にあたり、当麻皇子とも呼ばれる。

 最初の鬼退治の日子坐王との関係では、日子座生の皇子の一人が當麻の勾君(たぎまのまがりのぎみ)の祖とされているので、麻呂子親王の別名、當麻王との繋がりが確認できる。

 神明山古墳のすぐ近くに、高さ20メートルにも及ぶ日本でも最大級の一枚岩の柱状玄武岩がある。立岩と呼ばれるこの岩は、伝説によれば、麻呂子親王によって退治された鬼が、封じ込められた場所とされる。

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間人(たいざ)の立岩。この岩のそばに、日本海を見つめる母子像が設置されている。聖徳太子の母親、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)と、聖徳太子だ。

 この場所は、間人(たいざ)と呼ばれ、物部氏蘇我氏が争っている時、聖徳太子の母親、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が、この地に身を寄せていたとされる。そして宮に戻る時、自分の名前、”間人”をこの地に贈った。しかし、そのままその名前を呼ぶのは畏れ多いからと、地元の人は、間人と書いて、”たいざ”と呼ぶ。

 このように神明山古墳のそばに、聖徳太子の母親と、聖徳太子の弟による鬼退治の伝承が残っている。

 この鬼退治は、いったい何を物語っているのだろうか。

 4世紀中旬の日子座王の時のように、もともとこの地にいた人々が討伐されたのだろうか。

 麻呂子親王の鬼退治の物語は、実は、朝鮮半島の混乱の時期と重なっている。

 5世紀末から6世紀の初頭にかけて高句麗との戦いで百済が深刻な状況に陥り、多くの技術をもった渡来人が来日する。

 さらに、6世紀の後半には、ヤマト政権と高句麗との交流が始まり(570)、高句麗を通じた文化流入が起こった。

 そして、聖徳太子と同母弟の来目皇子(くめおうじ)が、当時、朝鮮半島で力をつけていた新羅征討(西暦602年~603年)を命じられたが、病気で亡くなり、麻呂子親王が後を継ぐ。しかし、播磨国明石で妻が亡くなり、彼女を明石に葬った後引き返したという奇妙なエピソードがある。

 当時の日本は蘇我氏を中心に新たな国家体制を作ろうとしたため、国家統治の技術として、渡来人の最新の知識や技術を必要とし、積極的に渡来人を受け入れていた。

 麻呂子親王の鬼退治は、そうした変化に抵抗する勢力の討伐であったのか、それとも、動乱の朝鮮半島から日本に逃れてきて、現地の住民とのあいだで何かしらの揉め事を起こしていた人々なのか。

 京丹後の地は、古代から日本にやってくる渡来人の上陸地であった。

 古代の船はエンジンがないので、風や潮流の影響を受ける。そのため、小さな島がひしめき、潮の方向が読めないうえに海賊に襲われやすい瀬戸内海の航海は、簡単ではなかった。

 それに対して日本海は、西から東へと対馬海流が流れている。そのため、朝鮮半島の南端の百済あたりから船に乗ると、北九州に上陸しやすいが、朝鮮半島の中ほどから船に乗ると、潮流に乗って、京丹後から若狭湾にかけて上陸する。そして、朝鮮半島のさらに北の高句麗あたりからだと、新潟や秋田県にかけて上陸するのだそうだ。

 そして京丹後には由良川という大きな河川が流れており、その上流部は、兵庫県の氷上あたりだが、そこは日本で一番低い分水嶺で、標高100mほどしかない。そして加古川武庫川を通じて、播磨や摂津へと移動し、奈良や京都にも簡単に達することができる。

 こうした地勢的な条件を踏まえると、大陸や朝鮮半島から九州に渡った渡来人ばかりでなく、直接、京丹後あたりに上陸し、しばらくの間、そこに住み着いたり、ヤマトの地へと移動していった人々がいたことは、十分に想像できる。

 京丹後における鬼退治の話は、藤原摂関家が栄華を極めていた10世紀にも生まれている。その当時、京の都から人々が次々とさらわれ、陰陽師安倍晴明によって、これは大江山に棲む酒呑童子のしわざと判明され、多田の地で清和源氏の基礎を築いた源満仲の息子、源頼光が鬼退治を行った。源頼光は、藤原道長の側近としても活躍した人物であるが、渡辺綱など四天王と呼ばれる屈強な武士を連れて討伐に向かう。

 この場合の鬼とは何か?という疑問に対して、大江山の産鉄民であり、朝廷が管理下に置きたいがゆえに、鬼退治の物語が作られたという説がある。

 頼光の父である源満仲は、京都での暮らしの嫌気がさし、住吉神の神託を受けて摂津の多田の地を拠点にすることになったが、多田は有数の銀銅山であり、源頼朝足利尊氏など後に武士として活躍する清和源氏の発展と鉱山の関わりは深い。

 聖徳太子の時代の麻呂子親王による京丹後の鬼退治もまた、大江山の鉄との関係が考えられる。

 麻呂子親王当麻皇子は、奈良県葛城の二上山の麓に鎮座する当麻寺を開基したとも伝わるが、この当麻の地は、大和鍛治で知られ、平安時代後期以降、大和の国に栄えた刀工集団、千手院、当麻、尻懸、保昌、手掻の大和五派の一つである。

 もともと葛城の地は、鉄と関わりが深く、この地を支配していた葛城襲津彦(4世紀末から5世紀初頭=娘の磐之媛命(いわのひめのみこと)が仁徳天皇の皇妃となり、その子供、履中天皇(第16代)・反正天皇(第17代)・允恭天皇(第18代)の外祖父となる)が、新羅を攻略した際に捕虜として鍛治関連技術を持つ人々を連れ帰り、自分の支配地に住まわせて働かせた。彼らを忍海漢人(おしみのあやひと)という。 

 そして、葛城山麓の平野部には、南郷遺跡群や脇田遺跡など数多くの鉄器を生産した鍛冶工房の遺跡群が近年明らかになっている。この地の群集墳から、副葬品として鍛冶道具や鉄滓などが見つかっており、中でも、寺口忍海古墳群は、鍛冶道具一式をもった古墳もある。

 また、聖徳太子の同母弟、来目皇子による第二次新羅征討計画(西暦602年~603年)において、推古天皇は忍海漢人肥前国三根郡に派遣し、新羅征討の為の兵器を作る指揮を取らせたという記録がある。

 武器のための鉄資源を求めて、聖徳太子の異母弟、麻呂子親王による丹後の鬼退治が行われたのかもしれない。

 ピンホールカメラで撮った丹波、丹後の聖域→https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world/kyoto