この記事によると、鬼海さんは29歳の時、「撮る人間と撮られる人間の関係をもう一度考え直したい」と言っていて、50年近くも前にそんなことを真剣に考えていたんだと、今更ながら驚かされる。
写真が自己主張の手軽な手段となり、自己承認欲や虚栄心のために被写体を自分に都合よく利用しているだけの写真が溢れかえった現代において、鬼海さんが50年前に真剣に考えていたことは、写真における人間の尊厳を取り戻すためにも、今こそ大事なこと。
年末に必ず集まるメンバーの中に、3年前までは鬼海さんがいた。2年前の年末は、鬼海さんは、赤十字病院に入院していたので見舞いに行った。
そして去年は、鬼海さんを弔う酒になった。
今年の集まりで、いつものように次に作る映画の話になった時、保田與重郎の『現代畸人傳』のことが出て、「奇人の真っ当さ」という話になった。
鬼海さんは、29歳の時にすでに浅草に通って「PERSONA」の写真を撮っていたわけだから、40年以上、奇人を撮り続けていたことになる。
この長期におよぶ撮影の話にはならなかったが、今回の集まりの席で、「鬼海さんこそは奇人だよなあ。」という話になった。
奇人は、人と同じことをしていれば安心という回路をもたないため、自分のこだわりに一途なところがあり、その分、人間臭さがあるし、傷つくことも多いので、孤独がある。
その傷や孤独を決して憎悪に転換しないのが、真っ当な奇人だ。被った傷を憎悪に転換することなく、哀切で痛切な祈りに昇華させているからこそ、慈愛の心も深まっている。
鬼海さんが撮っている写真は、真っ当な奇人の昇華物だ。
真っ当な奇人は、「撮る人間と撮られる人間の関係をもう一度考え直したい」という言葉に現れているように、誰よりもこだわりが強い自分が自分の中に存在しているのにもかかわらず、相手のことを気遣い、常に慮っている。
だから鬼海さんは、通り過ぎながらのスナップショットができない。
シャッターを押せない時間が長いというだけでなく、シャッターを押したい瞬間に出会った時にも、獲物を見つけたハンターのように撮影するのではなく、にんまりと、「いいなあ」と半ば放心したように、その場で佇む。そして、その対象と、自分の中に生じた心の動きをどう重ね合せるかを、高速回転で思考するのだ。
北星学園余市高等学校の卒業生を取材するために、鬼海さんと、札幌、京都、大阪、東京などに出向き、インタビューと撮影を行なったことがあった。
鬼海さんは、彼らと話をし、一緒に歩きながら、彼らにとって最善だと思われるところで立ち止まり、撮影を行なった。
たとえば京都では、とても繊細な若者の取材だったのだが、街の雑踏を外れ、鴨川のほとりに向かい、背後には橋の欄干と水の流れだけしか見えないところまで歩いていって、立ちどまって、撮影した。撮れた写真を見て、なるほどと感じずにはおれなかった。
この取材は、ある程度、地域性の反映も編集意図の中にあったのだが、京都とか札幌とか、その土地を記号的に表すものにもたれかかることなく、鬼海さんは、その土地の空気と若者をうまく重ね合わせる撮影を、ロケハンもなく、ぶっつけ本番で成就させていったので、とても感心した。
また、その撮影現場における鬼海さんの歩く姿や、表情や、若者に語りかける時の口調などが、いつまでも記憶のなかに残っている。
全てがユニークなのだ。
鬼海さんのような真っ当な奇人の固有のユニークさは、長年の積み重ねの中でしか生じてこない。
そして、時折、そうした固有のユニークさと触れ合えることが、人生において、何よりも味わい深い時間だという気がする。
世間で名の通った写真家が残した写真にかぎらず、真っ当な奇人が残したどんな物にも、そのユニークな味わいは染み込んでいる。
傷ついたり傷つけたりすることに対して過剰に反応する現代社会ではあるけれど、生きているかぎり、生老病死から逃れられないのと同じで、心の傷を受けずに天寿をまっとうすることも難しい。
最終的な問題は、傷に対する耐性になってくる。傷を、絶望と憎悪に結びつけてしまうのではなく、深い哀から慈愛に昇華させる魂を育てること。
表現者が行う一番重要な仕事は、そういうところにあるような気がする。
鬼海さんが残した足跡を見ていると、そう思わざるを得ない。
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