道徳教育よりも大事なこと

 今朝の新聞で、学校教育において道徳教育を強化することが書かれていた。しかし、子供は大人を見て育つのであり、道徳においては、子供の前に大人が改めなければならないことはたくさんある。
 テレビなどにおいても、人を物のように扱ったり、人をバカにしたり、有名になる為に恥も外聞もないことをやったり、物を祖末に扱うシーンは溢れている。
 また、大人は、相も変わらず大企業への就職や有名大学への進学を幸福へのパスポートのように信じ、偏差値教育で子供達を締め付けている。そして、子供をお金儲けのターゲットにした各種のビジネスがこの国には氾濫している。さらに、大衆メディアは、広告スポンサーに媚びて人々の物欲や虚栄心を煽る。子供の心を蝕むことが十分に予想できているのに、大人は、そうした振る舞いを改めようとしない。
 文部科学省が発表した問題行動調査(二〇一三年度)によると、不登校の小中学生は計一一万九六一七人だった。内訳は小学生が二万四一七五人、中学生は九万五四四人。小学生は、およそ三〇〇人に一人、中学生は、およそ四〇人に一人が不登校だ。
 こうした状況の中、不登校の子供のために、自宅で勉強しながら卒業資格が得られる通信制高校が増えている。中にはゲーム感覚で学習できることを売りにした学校も登場した。これについて、子供の興味を引く事で学習のきっかけになるという専門家の意見もあれば、人と交わらないために、子供の人格形成に支障をきたしたり、人間関係が作れないのではないかと心配する声もある。
 しかし、どちらの意見も、問題が子供の側にあるという点で共通しており、大人自体の問題からは目を逸らしている。
 大人が子供達と真正面から向き合わなければ、問題の先送りにしかならないだろう。
 子供と真剣に向き合えば、大人は、自らの人生や社会の未来を考えざるを得ない。大人がそれを怠ると、子供は、大人や社会に対する不信を抱き続けたままになる。
 
 多くの大人は、現実がこうだから仕方がないと言い、自分の見栄の為に子供に過度に期待したり、その逆に子供のことに無関心になって、子供の未来に自分達が作り出した巨額の借金を押し付けることに対しても他人事の顔をしている。
 何よりも、大人が子供と真正面からぶつかるエネルギーや情熱を失っている。頭でっかちの専門家と称する人間が、こういう教育が効果的などと宣伝すると、その付け焼き刃的なハウツーを無責任に子供にあてがったりする。
 二〇世紀は、科学の最先端の領域で素粒子物理学等が登場し、物事の観測や予測を正確に行なうことが不可能であるという考えが出ていたものの、その考えはミクロの世界の現象に限定され、私たちの日常世界では、相変わらずニュートン力学のように原理を正しく理解できれば予測は可能であるという考え方が前提になっていた。
 そして、この考え方が、人生設計にもあてはめられた。
 「一つの正しい答(原理)を決めつけ、それに基づいて将来を予測し、計画をたて、準備をすること。」が正しいという前提で、二〇世紀の教育は行なわれていた。そのビジョンのもと、進学競争、就職競争、出世競争、マイホーム計画、子供の受験対策、老後の対策などがあった。最初に未来の計画があって、その上で現在をどう生きるかが問われた。その計画に添って上手にやることが安定した人生につながる、他の人と違うことよりも同じことをやった方が良く、大勢の人が良いと言うものは良くて、少数派が支持するものは価値がないという考え方。そういう考え方にそって、企業活動や表現活動を行なっている人は、現在でも多い。
 しかし実際の現実はどうだろう。
 大勢の人に当てはまるものは標準的なものになり、簡単に真似ができる。だから、企業が作り出す商品も似たようものばかりが増え、価格競争に陥り、結局、人件費が安いところが優位という状況になって中国をはじめとする新興国に勝てなくなった。
 しかも低価格な規格品を大量生産するための設備は、巨額の投資が必要であり、もし競争に負けてしまったら莫大な損失を被ることになる。大手企業といえども、人件費を抑えるためのリストラを避けることができない。こうした状況は、三〇年前には予想できなかったし、今の子供達が社会の第一線で働くようになる一〇年後や二〇年後は、さらに状況が変わっていることだろう。
 大勢が正しいと言うことが正しいと思い込むのではなく、自分の頭で考えて判断する癖をつけていないと、従来の常識が通用しない局面に遭遇した時に、うまく切り抜けることができない。人間にとっての生命力とは、予測を超えた環境変化への対応力なのだ。
 にもかかわらず、子供を大人の常識の中で管理したり、子供の為だからと言ってリスクのあることをさせず、結果的に子供の生命力を蝕んでしまう大人が多い。
 二〇世紀のように機械的な効率性を重んじる社会においては、一人ひとりの固有の判断力は求められなかった。
 しかし機械システムというのは、一度作ってしまえば、ずっと同じことを繰り返すだけであり、それは人間の心を蝕むだけでなく、変化が生じた際に、その硬直性が弊害になる。
 インターネットのような革新的なシステムが浸透すると、自分が持っている知識(正しいと信じている答)よりも、その時々に最善な答を膨大な情報の中から探し出す方が、より優れたアイデアに到達しやすく、その為には、情報を見極めたり、関連づけていく力が求められる。
 これまでの価値観のなかで評価付けがされているもの(肩書きなども含めて)を蓄えて自分を武装していくのではなく、蓄えはなくても、変化に応じて、その都度、必要なものを周りから引き出せる力を身につけておくことが大事なのだ。
 歴史上、恐竜のように大きな図体の方が生存に有利だった時代もあるが、それが突然、小型で動きの速い哺乳類しか生きられない環境に変化したこともある。人間社会にも、それに似たようなことが起こりつつあるかもしれない。
 この変化が、どういう未来を準備しているのか誰も決めつけることができない。だから、学校や家庭などにおいても、大人は子供に完全な教育などできやしない。教育は答を与えるものであり、この時代において、大人が子供に与えられる絶対的に正しい答など存在しないからだ。
 しかしながら、絶対的に正しい答はなくても、何が間違いなのかは明確で、それは、これだけ時代環境が異なっているのに従来のやり方に固執し続けることだ。
 これまでの常識が通用しないことを自覚している大人は、どうすべきか考え、学び続けている。現在は、大人自身も正しい答がわからない時代であり、そんな時代に大人が子供に対してできることは、”教育”ではなく、自らも必死に考え、学び、取り組んでいる姿を見せることだろうと思う。
 大人の真剣な姿こそが、子供にとって何よりも学びであり、その真剣さが自分の為に向けられていることを実感できることは、どんな人間にとっても喜びなのだ。
 人間に対する信頼は、そのような真剣さを通して育まれる。そして人間に対する信頼こそが、生きる力の源泉であろう。学校は、子供達の未来に多大なる影響を与える。だからこそ、知識や卒業資格や道徳教育の為だけでなく、人間と人間が真剣に触れ合い、人間への信頼を育む場であって欲しいと思う。


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