体罰とルール

 昨日、家に帰ってテレビをつけたら、「体罰」が否かどうかという論争をやっていた。

 そして、現場の教師が、体罰できないために授業がめちゃくちゃになり、他の生徒が授業を受ける権利を損なわれていると主張したり、生徒に殴られても殴り返せないから教師の体罰を認めて欲しいと訴えていた。

 そのような体罰賛成論者は、教師から生徒への暴力に比べて生徒から先生への暴力が圧倒的に多いという数字を持ち出し、それを根拠に体罰の必要性を説きながら、体罰も愛情の一つであると主張していた。

 それに対して、体罰反対派の多くは、「問題解決に暴力を持ち込むのは反対」という常識的な意見がほとんどで、そうした良識だけで、今日の学校現場の問題を解決できるとは到底思えなかった。

 私は、ルールとしての体罰は反対である。しかし、現場でやむなく発生する“体罰”は肯定する。矛盾していると思われるかもしれないが、ルールとしては禁じられていても、敢えてそうせざるを得ないというところに、その行為の本当の価値があると思うのだ。

 そういうことを言うと、「ルールを破って罰せられる方の身にもなってくれ」という声が返ってくるかもしれない。しかし、そうしたリスクを背負ったうえで行うからこそ体罰も愛情の一つとみなすことができるわけで、体罰が許可されているという条件下で行われる体罰を愛情の一つと主張するところに、小心者の狡さを感じる。

 自分が罰せられるから、それをしない。罰せられないから、それをする。そうした条件付きの行為を、愛情と言っていいのだろうか。

 それは、戦時下の「愛国心」と同じだろう。

 「ルール」は時として戦争に国力を集中させるために用いられることがある。そのようにして「ルール」ができた時、それに違反して罰せられることをおそれて保身的に従う教師が大勢いるから、その間違った流れも強化されるのだ。

 自分が罰せられるかどうかなど関係なく、生徒と本気でぶつかることができるかどうかが大事だろう。

 罰せられるかどうかビクビクしているような教師側の計算が透けて見えるから、生徒に、「殴ってみろよ、どうせできないだろう」と小馬鹿にされるのではないか。

 仮に、体罰という行為に出て、バカな親がネチネチと学校や教育委員会に訴えて、その教師をクビにするような動きにでても、生徒を集めて、その旨を堂々と説明すればいいのではないか。もし本当にその先生が生徒に信頼されている先生ならば、多くの生徒の側やその親から、学校や教育委員会の決定に対して反対の出る可能性もある。自分の子供が悪いのに体罰されたことで先生を退職に追い込もうとするバカ親もいるだろうが、その反対に、必要に迫られて手を出した教師を退職に追い込もうとする学校や教育委員会に苦情を発する賢明な親だって存在するのではないか。といって、そういう親が存在することを期待するのではなく、自分が退職に追い込まれるリスクを覚悟のうえで行動できるかどうかということだが。

 こういうことは先生にかぎることではない。サラリーマンをやっていても、上司にたてつくことは、ルールとして認められていない。しかし、クビを覚悟でそうせざるを得ない局面もあるだろう。もちろん、それができない人は圧倒的に多いのだが、だからといって、上司にたてつくことをルール化すればいいという問題でもないと思う。ルール化されていないけれど、敢えてそうせざるを得ないという行動からしか現状は変わっていかないのではないだろうか。それができない者のことを考えろという人もいるが、ルールや制度やマニュアルがなければ何もできない者が、それらを楯にして自分の行動を正当化することが一番厄介だ。

 クレーマーというのもそういう類が多く、彼らの主張の多くは、「人権保護」という制度化されたものを楯にして、「精神的慰謝料を支払え」というものが多い。

 最近では過剰な権利意識による異常なクレーマーが増えている。旅行業をやっていても、クレーマに出会うことはある。しかし、クレーマーは目立つけれど、その数が過半数を超えているということではない。10人のうち1人でもクレーマーがいると、その対応が大変だから、みんなクレーマーを極端に恐れているのだ。

 しかし、一人のクレーマーのご機嫌を取ることで、他の賢明な9人が厭な思いをすることがある。だから、私の会社では、一人のクレーマーに決して妥協しないという方針をとってきた。どんなに対応が面倒でも、一人のクレーマーに毅然とした態度でのぞまなければ、他の9人の信頼を失うし、自分の仕事に対する誇りすら放棄することになる。さらに、たとえ面倒でも、あれこれ対応していくことで、自分自身が鍛えられる。その面倒を避けて、避けることに馴れてしまうと、二度と面倒なことに立ち向かえなくなるのだ。

 「ルールとして認められればやる」という臆病なスタンスを教師がとっているかぎり、子供は、大人をなめてかかるだろう。子供が大人をなめるというのは、大人にとってのみ辛いことではなく、これから大人になっていかなければならない子供にとっても、自分の将来がそこに反映されてしまうわけで、やりきれなくなってしまうのではないか。

 いざとなれば、自分のリスクで行動する。自分のリスクで行動する時には、ルールは関係なくなることがあるというスタンスを、口先ではなく、実際の現場で大人(教師)が、子供に見せていかなければならないのではないか。

 安定就職先であるという理由で教職を選ぶ人が多いから、ルールに縛られるのかもしれない。 

 一番避けなければならないのは、安定就職先であるという理由で教職を選んでいるような信頼の置けない保身的で狡い先生が、自らの暴力行為を正当化できてしまう局面を作ることだ。

 それにくわえて、マスコミなどをはじめ、「ルール違反だ!!」という大合唱によって、信頼できる先生が自分のリスクでやむなく行ってしまった体罰を、よってたかって糾弾して全員で悪者に仕立て上げないことだ。

 その行為が良いものか悪いものかは、その現場にいない人間に判断する資格はない。当事者でないのに、「ルール」という便宜上標準化された決まり事で、この世の全てを裁定できる権利を持ったように錯覚をしている人が増えているから、シンプルな問題が複雑化しているのだと思う。

 ルールを守ることは大事かもしれない。しかし、ルールに書かれたことだけをやれば、人間が幸福になるとはかぎらない。時には、自分でリスクを負って、ルールに書かれていないこともやらなければならないことがある。何事も、計算どおり、マニュアル通りではないということ。大人が子供に体当たりで教えるべきことは、そういうことであって、「ルールを守る」ことだけを教えて、マニュアル人間を多くつくることが、教育ではないだろう。そうした子供への接し方を続けていると、子供は人生の広がりを感じることができない。子供に、人生を味気なく卑小なものだと感じさせることが、大人の一番の罪だと思う。


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