子供の教育について

 親が子供に望むことは、幸福な人生を送って欲しいということであり、躾や教育というものは、本来そのためにあるのだと思う。

 教育や躾の目的として、他人に迷惑がかからないようにとか、社会生活を健全に送れるようになど様々な理由が挙げられるが、そうしたことも、ただ単に「そうしなければならない」のではなく、そのことによってどう幸福につながるかが大事であり、それがゆえに幸福観をどこに設定するかが教育や躾の鍵になると思う。 

 

 先日、小学校の授業解放を見学したが、生徒が先生の方をきちんと見ておらず、だらだらとしているのに淡々と授業を進める先生を見て、とても気になった。何度も何度も注意する必要はないが、一時間の授業のうちに数度でも、「みんなあ、先生の方をしっかり見ろよ」と言えばいいいのに、その言葉が一度もない。言葉以前の問題として、先生が生徒に真剣に向き合っているという”気”みたいなものが全然伝わってこない。自分が”気”を発していないから、相手もまた”呼応”しないのではないか。”気”は、相手に真摯に本気で向き合うスタンスから生じるものなのではないか。

 相手にきっちりと向き合って対話することの大切さを、子供は大人を見て覚えていく筈なのに、先生に限らず、われわれ大人にそれができていない。

 正しいとか間違っているとか、効率がいいとか悪いとか、教えている内容が的確かどうかとかなどは、時代環境が変われば変わってしまう価値観だが、時代環境が変わっても普遍的に変わらない大事なことは、人や物事に対する「真摯な向き合い方」だろう。

 大人は、子供たちの無気力を直さなければならないなどと理屈っぽく言うが、そうではなく、自分たちの無気力さが子供たちに伝染しているのだと、まずは考えなければならず、大人が子供たちに気力の漲った姿を見せ続けることが、子供の無気力への最善の対応だと思う。

 そうした基本的なことを棚上げにして、われわれ大人は、教育改正を行おうとしたり、それに反対したりしている。

 道徳だとか愛国を大切だと説いたり、そういうスタンスが戦争につながるのだと反論したりしている。われわれ大人はいったい何を言い争っているのだろう。

 大事なことは、そういうことではなく、子供も含めてわれわれの幸福をどのように捉えるかなのだ。

 子供に楽をさせてあげることが幸福だと思う人もいるし、大企業に入って他人を蹴落としてでも出世することや、不正を働いてでもお金儲けをすることが幸福だと錯覚している人もいる。そこまで露骨でなくても、順位が上であることや、持っているものの数が多いことや、目立つことや、権威あることを幸福のバロメータと考える人は多い。

 さもなくば、他人にあてがわれたことを淡々と機械的に事務的になぞるだけや、自分に責任がかからないようにすることが楽で、楽なことが幸福だと思っている人もいる。

 また状況の変化に関係なく、頑迷に自分の主義主張を力づくで押し通して満足感を得ようとする人もいる。

 自分がその程度なのに、活き活きと気力があり、周りに配慮もでき、素直で行儀の良い子供を望んでいる。昔の子供はそうだったなどと言う。

 大人の歪んだ幸福感が、知らず知らず、子供に反映されているのだ。

 子供の教育をどうするかではなく、大人の歪んだ幸福感を修正することが先決だろう。

 歪んでいるとは思っていないことが一番の問題で、だからこそ、子供にその影響が出るのだろうが・・・。


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