ビックデータの時代と、小学生なりすましの件について思うこと。

 小学生になりすまして今回の衆議院解散に疑問を投げかけるホームページを作った若い人が卑劣だと責められ、安倍首相までがFacebookで、この件を「最も卑劣な行為」と批判した。この程度のことを最も卑劣な行為を責めるのであれば、小渕優子経産相の不正はどうなるのだということになるし、身内にだけ寛容ということになると、アンタの方が卑劣だろうということになる。

 また、その小学生になりすました大学生が通っていたという大学AO入試合格の為の塾(そんなものがあるなんて知らなかった)の塾長がヒステリックに謝罪したりと、ちょっと異様な騒ぎだ。
 それはともかく、私が不思議でならないのは、あのホームページを見て、本当に小学生が作って運営していると思っていた人がいたのかということ。そして、実際に子供が作っていると信じていたのに20歳が作ったとわかって、騙されたと怒り狂っている人がどれだけいるのかということ。
 自分が実際に騙されたとすれば、怒るというより、「バカだなあオレ」と笑うしかないような気がするのだけどどうだろう。実際に、仮にあのホームページを作ったのが小学生だと信じていたとして、それが違ったところで何の実害もない。「なんで解散するんだろう」という疑問を確認するだけでないのか。
 卑劣極まりないと怒っている人達は、実際には自分が実害を受けたのではない。にもかかわらず、「正義」に反するとか、ネット上の情報の信憑性がなくなるとか、政治的に卑怯だとか、観念的に正しさを主張して、観念的に悪をなじっている。
 こうした正義は、アメリカがイラクを攻撃した時の精神構造にとても似ていると私は思う。アメリカは実際に実害を受けているわけではないのに、「正義」という観念をふりかざして攻撃する。
 今回の小学生なりすましの件でも、実害を受けた人達がいるのであれば、その人達が、具体的にどういう迷惑を被ったかを論じればいい。
 しかし、自分が実害を受けているわけではないのに、「こうした成りすましが増えるとネット上の情報の信頼性が落ちて情報を見る側の情報コストが高くなるから許せない」等と、時代錯誤の正論を胸を張って主張する人も出てくる。
 ビッグデータの時代、ネット上の情報の信頼というものについて、違うステージで考えなくてはならないのではないか。
 グルメ雑誌で紹介されているからといって、その情報を鵜呑みにしてレストランを選ぶ時代ではないだろう。一方的に発信されている情報の背後には、広告スポンサーをはじめ、様々な仕掛けがあるのではないかと疑い、だから口コミサイトの情報をチェックする。そして、口コミサイトの一人ひとり異なる評価を見ながら、その傾向を読み取ろうとする。絶対に正しい答が情報を通して与えられるのではなく、複数の情報の中から傾向を読み取って自分の判断を下し、判断を下しながらも、情報の変遷によってその傾向が変わってくる可能性もあると了解して、その後の観察も怠らない心の備えが必要な時代になっているのではないか。
 こういう時代において、学校教育などにおいても、もはや決まりきった正しい答を覚えさせればいいという時代ではない筈。答は常に流動的であり、その時点ごとに得られる情報をもとに多面的に総合的に判断していかなければならず、それができるような思考の方法論を学んでいくことが必要だろう。
 おそらく、社会の様々な分野において、そのようになっていく。教育の仕方も、学問の仕方も、仕事の仕方も。
 ああいう「小学生なりすまし」の出来事があったら、昔だったら自分の子供に対して、「こういう嘘はいけないよ」という躾をすればよかったのかもしれないけれど、これからは違う。
 「表面的な情報で物事を判断してはいけないよ。色々な調べ方があるのだから、色々と調べて、傾向を読み取って判断していかなくてはならないよ。親や先生や偉い人が言ったからといって、それが正しいと思ったら大間違いだよ。自分で考えなければならないよ」と教えなければならない。少なくとも私は、子供に対して、「先生の言うことなんか半分くらい信じるくらいでいい」と言う。私自身が言うことだって同じだ。オレの言うことを信じろと子供に言うことなんかとてもできない。誰も、この先のことなんか明確にわかりはしないのだから。しかしながら、自分はこういう根拠をもとにこう考えるということは伝える。子供に対して決まった答を押し付けるのではなく、答に向かうための方法論とか取っ掛かりの掴み方を、子供は大人を通して学んでいくことができるのではないかと思う。
 この先のことが完全にわからないかぎり、絶対に正しい答というものはない。しかし、正しそうな傾向というものはある。正しそうな傾向とは、現実に起きていることの受けとめ方や、対策の仕方において、その方がよりよく生きていけそうだと感じられることがポイントになる。
 インドのカルカッタに行こうと決めれば、いくら信用できるからといってたった一人の友人の情報だけを元に行くのではなく、その信用の置ける情報を核にするものの、それ以外のルートで幾つかの情報を仕入れておけば、現地に行った時に、もし何かしらのアクシデントによって友人の情報が通用しなくなった際に、慌てることなく対処できる。
 仕事にしても同じだ。絶対に正しい答ではなく、正しそうな傾向というのは、そのようにして掴んでいくものではないか。リスクが小さなものなら、そこそこの心構えでかまわないし、リスクが大きいものは念入りに多くの情報を集め、傾向を読み取るということになる。情報過多の時代には、そのバランス感覚が重要になる。
 ただ、情報さえあれば判断できるわけではなく、情報収集よりも先に、そこでどういうことをしたいのかというイメージを持っておくことが大事だ。具体的である必要はなく、漠然としながらも方向性のようなものは持っておいた方がいい。そして、「どういうことをしたいのか」というのは、その時の気分の問題というより、実際には哲学的な問題だ。
 その時々の気分というふうに捉えている人もいるかもしれないけど、長い目で見れば、けっきょくどういうふうに生きたいのかということと、どこかでつながっている。
 どういうふうに生きたいのかという哲学は、やはり色々な人の人生の影響を受けて形成されていく。子供にとってその最大の影響元は身近な大人だ。子供は無意識のうちに大人から影響を受けて、自分では”気分”とか”時代の空気”という程度に解釈していても、実際は、どう生きていくかという哲学において、知らず知らず、大人に洗脳されてしまうのだ。 
 子供になりすます大人が子供にいい影響を与えるとは思えないが、 ネット上の特定情報に噛み付いて、そこで思考停止に陥っている大人が、情報変動の著しいこれからの時代を生きていく子供にとっていい見本になっているかどうかを考える必要があるだろうと思う。


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