人間の内面を描くとは 

 昨日、渋谷の東急文化村で「モディリアーニと妻ジャンヌの物語展」を見る。会場を入ってすぐの所に、パリのモンパルナスにあるカフェ・ドームの、ほとんど実物大のモノクロ写真が飾られている。

 20歳の頃、パリのモンパルナス駅近くのレンヌ通りの屋根裏部屋に住んでいた私は、カルチェラタンの有名なカフェ、ドゥ・マゴの気障で賑々しい感じよりも、カフェ・ドームのしっとりと落ち着いた感じが好きだった。特に雨の日は、ガラス張りの天井から雨の滴が線を引きながら伝わって落ちてきて、それを見ているだけでも飽きなかった。

 モディリアーニは、当時から好きな画家だった。なぜだか知らないが、強く惹かれるものがあった。

 今回の展覧会では、モディリアーニが病死した時に後を追うようにして自殺した妻ジャンヌの作品も同時に展示されていて、夫婦で同じモデルを別々に描いている作品を見ることができる。ジャンヌは、自分の見た目の”感じ”を描いているが、モディリアーニは、異なるアプローチをしている。モディリアーニは、人間の内面に関心があり、それを描こうとしているとよく言われる。しかし、人間の内面を描くというのは、いったいどういうことだろうか。

 狡い人物を描くために口元を歪めたりして狡そうに描いたり、お人好しの雰囲気を出すために、タレ目に描く。そのように表情に変化をつけることで人間の性格を表すことは簡単なことだ。しかし、それは人間の内面を描いたというより、人間が習慣的に結びつけている「性格」と「表情」の関係を上からなぞっているだけだろう。

 悲しそうな顔、嬉しそうな顔、強欲そうな顔、慎ましやかな顔・・人間は、人間の表情を見て、相手を見極めようとする。

 西欧のように高度に社交術が発達した社会においては、好感の持たれる表情づくりや、喜怒哀楽の顔づくりの意義は、躾や教育のなかにさえしっかり根付いている。そんな彼らだから、能面のような日本人の表情を見ると、何を考えているか分からないということになる。

 そして、モディリアーニの描く人物は、まさに能面のような表情なのだ。

 能面をつけた役者は、一つの面から様々な表情を見せることができる。演じようとする感情に合わせて、面を付け替えたりしない。

 もしも、絵画を描く際、人間の内面を表現するために「表情」をつくってしまうと、その人物は、その性格付けの檻のなかに閉じ込められてしまう。しかし、人間の内面は常に流動的であり、そのように固定されたものではない。また、お人好しの表情をして人心を掌握し、悪事を重ねる輩もいる。

 モディリアーニ自身は、イタリアの裕福な家に生まれ、美貌の持ち主で女性にもてた。しかし、幼い頃から病気がちで、成人してからは麻薬と酒に溺れ、奔放な生活を送った。自分の見た目の良さと、ドロドロとした内面のギャップを、モディリアーニ自身が一番理解していただろう。

 自分の外側に現れるものをどんなに賞讃されようとも、生身の自分の全てが受け入れられているわけではない。そして、自分の孤独を本当に理解されているわけではない。

 とはいえ、モディリアーニ自身も、恋に落ちる女性は、美しく聡明で才能に満ち溢れる人ばかりだった。それらの女性もまた、モディリアーニの美貌に強く惹きつけられていた。

 そうした自分の現実と、精神的境地としての理想とのギャップを埋めるための足掻きのようなものが、モディリアーニの絵だったのではないかと思うことがある。 

 妻のジャンヌが描く酒場の女性は、どこか生活に疲れたような雰囲気であるが、それと対称的にモディリアーニの絵のなかでは澄んだ美しさを醸し出している。

 自分が病魔に犯されていたからかどうかわからないが、生きて存在することそのものの美しさを、モディリアーニは捉えているように思う。

 モディリアーニの絵の特長は、目がないことと首が長いのに関わらず、あまり不自然さが感じられないことだ。

 目は口ほどにモノを言うという喩えもあるように、顔の表情以上に、目は、その時々の心情を反映してしまう。そして、見る側に立っても、目の見え方だけで相手を評価してしまうことがある。人間は、目によって何かを見極めようとするが、目に裏切られることが多い。目は、永遠を反映させるうえで、なんとも心もとない存在であり、モディリアーニはそのことに強く自覚的で(彼に限らず、優れた芸術家はみなそうだろうが)、目の強さに誤魔化されずに人物を表現することを試行錯誤していたのではないだろうか。

 そして、首というのは、身体のなかで何とも呪術的な部位だ。

 古代から、戦闘で打ち負かした敵や、宗教・呪術のために、頸部の部分で頭と胴体を切断する。メドゥーサも、ペルセウスに首を落とされた。首を落とすというのは、相手の生命を完全に絶つことの象徴のようである。

 モディリアーニの絵を改めて見つめると、目が白目の顔というのは、生者ではなく死者を連想させるが、その顔を支える長い首によって、その顔がまぎれもなく生きているという感じが伝わってくるのだ。

 今回の展覧会では、ジャンヌとモディリアーニの素描をたくさん見ることができる。

 ジャンヌの素描からは、”彼女にとって見えるがまま”に描こうとしているという真摯さが伝わってくる。そして、彼女は、モデルの背景などを細かく描く。主体だけでなく、背景にも必死にイノチを与えようとしているように感じられる。背景の方が、より丁寧に描きこまれ、描かれた人物よりも、活き活きとした感じになっているものが多い。そこに描かれている人物は、”それじたい”でというより、周りとの関係で、生命を与えられているようにも見える。

 それに比べてモディリアーニの素描の人物は、背景との関係ではなく、”それじたい”で存在を示す。モディリアーニの手によって黒く引かれる線は、対象を閉じるように囲い込んでいくのではなく、空間のなかに新たな空間を生じさせるようにして人物を浮かびあがらせる。対象が生きるか死ぬかは、背景と関係なく、モディリアーニ自身の向き合い方次第なのだ。

 モディリアーニにとって、描くことは、自分の”見えるがまま”というこの世の分別を超えて、この世の生死とは関係ない芸術空間のなかで、人間に永遠の生命を与えることだったのではないか。

 それを芸術的に完成させることが、幼少の時から生死の境を彷徨い続けた彼にとっての救いだったのではないか。

 モディリアーニは、短い生涯の最後に、「僕が死んだら、ジャンヌに墓まで一緒に来てくれるよう伝えてくれないか。そうすれば、死ぬのは僕一人でも、天国に行ってから最愛のモデルで制作することができそうな気がする。これが本当に永遠の幸福かもしれない」

という言葉を残した。

 そしてモディリアーニの死の翌未明、ジャンヌは一人娘を残し、新しい子を身籠もったまま、五階の窓から身を投げた。

 モディリアーニは、人間ゆえにこの世の分別に囚われていただろうが、酒と麻薬の力を借りながらも、この世の分別を超えたところでジャンヌを愛そうとし、それが彼の純粋だった。

 ジャンヌは、モディリアーニが死ぬ直前、彼の寝顔を美しく端正に描き、彼が不在になる予感を、恐ろしく、陰鬱に描き出している。

 ジャンヌにとって、対象を見えるがままに描くというのは、自分の心情が目に作用してしまうということに無自覚に描くことだったのではないだろうか。ジャンヌが描いていたのは、この世の出来事に囚われて揺れ動く自分の心情であり、それに徹することが彼女の純粋だった。

 どちらも、純粋に生ききった。その純粋によって、モディリアーニは作品を残し、ジャンヌは、作品の力以上に、生き様そのものを伝説化することになった。


◎「風の旅人」のオンラインショップを開設しました。「ユーラシアの風景」(日野啓三著)も購入可能です。

http://kazetabi.shop-pro.jp/