大人の生き方が問われている

 三月六日に東京堂で行われた丸山健二トークショーに行った。

 丸山健二は、1967年に23歳で史上最年少で芥川賞を受賞した後(現代でも男性作家としては最年少)、つまらない文壇から距離を置き、各種の賞の候補になりながら全ての文学賞を辞退し、孤高を貫きながら、常に新しい試みを自分に課して、少しもブレることなく、同じペースで書き続けているすごい人だ。丸山さんには、次号の風の旅人の巻頭インタビューにご登場いただく。

 トークは、一時間ほどの短い間だったが、堪能した。この時代に、丸山健二のような”あっぱれ”な人間が超然と存在していることをリアルに感じられ、時代社会がどんなに混沌としようとも、腹をくくって、自分がやるべきことをやっていればいいのだと改めて心が定まった。どうせ人は死ぬ宿命なのだから、時代社会に対する問題意識は持っていたとしても、その問題の大きさゆえにネガティブに落ち込んで弱々しく生きていても仕方が無く、状況がどうであれ、思い切り生きるしかない。状況の困難さの前で委縮し、臆病になり、姑息な策を弄する人が増えると、状況はさらに悪化してしまうだろう。

 私が今、風の旅人の次号のテーマ「コドモノクニ」で考えていることも、これに通じるところがある。

 現代の日本社会は、政治も経済も教育も、かなり歪んでいることは間違いない。それらの問題に対して、批判する眼差しを持ち続けることは大事だ。しかし、だからといってニヒリズムに陥ってしまうだけだと、自分はそれでよくても、次の世代に対する責任を果たしていることにならない。

 状況がどんなに悪くても、その悪い状況の中で、大人は卑屈に生きるのではなく、あっぱれな姿を子供達に見せていくことが必要だ。そうした大人の姿こそが、子供にとって希望であり、大人がウジウジと現状を嘆いているだけでは、子供は未来に希望など持てないし、自分もそうした大人になっていくことに対して悲観するしかなくなるだろう。

 今、大人は子供に何を伝えるのか。

 子供の将来を考えて・・、子供を守る為に・・・、苛めを無くし子供の心を健やかにするために・・・という大義名分で、子供を受験戦争に駆り立て、学校のセキュリティを強化し、子供から危険(公園施設などにおいても)を遠ざけ、道徳を教科化して評価付けする・・といったことを大人は行おうとしている。しかし、これらのアイデアは全て、子供の生命力を高めることに逆行している。子供を檻の中に入れて大人が管理すれば、敵に襲われて傷つくことはなく、餌に不自由することもないと言っているようなものだ。そして、それが当たり前になってしまうと、ペットや家畜と同じで、もはや野生のフィールドに戻ることは不可能になり、命を司る大切な本能も失ってしまう。

 なぜ大人がそうした策を講じるかというと、大人にとって、その方が楽だからだと思う。大人は、「子供の為に」と口にするだけで、自分自身の生き方を改める必要はないのだから。

 しかし、子供は敏感であり、そうした大人の欺瞞に気づいている。だから、子供は、現在の大人を尊敬できなくなっているのだと思う。

 大人がやるべきことは、”子供の為に”などと、自分の生き方を問わない卑怯な大義名分を振りかざすのではなく、自分の生き様を通して、生きるということがどういうことなのか、身体を張って子供達に見せていくことだろう。

 丸山さんのトークの前日、静岡の望月通陽さんの所で長く話し込んだ。望月さんもまた丸山さんと通じるところがある。世の中に媚びたり迎合することがない。自分の軸をぶらすことなく、常に新しい課題を自分に与えて仕事に取り組んでいるが、その仕事の根底には、染色による表現という芯があって、長年、同じことを繰り返しているのだけれど、繰り返しの中でどんどんと深まり、より繊細により鋭くなっている。

 さらにその前日に、屋久島在住の写真家、山下大明さんと、静岡の袋井市で行われている彼の個展の会場で話し込んだ。山下さんも、20年以上、屋久島に住み着いて写真を撮り続けているが、今回の展覧会には屋久杉の写真が一つもなかった。屋久島イコール屋久杉と記号をなぞる仕事の方が簡単だが、彼はそんな安直なことはしない。(もちろん、屋久杉の写真は、他の誰よりも撮ってきた。屋久島がエコブームで有名になる前に)。

 山下さんは今、5mmとか5センチといったミクロの植物や、光キノコなどを中心に、とても繊細な屋久島の生態系を撮っている。注意深く見つめていないと、見逃してしまうような存在達だが、それらの生物もまた、屋久杉と同様、過酷極まりない屋久島の環境の中で、艶かしいほどの命を輝かせている。

 山下さんもまた、丸山さんや望月さんのように、同じ事を繰り返しながら、より深め、より繊細に、より鋭く、作品を作り出している。

 信頼できる表現者に共通していることは、この一貫性だ。この一貫性が、技術の圧倒的な確かさと、作りだすものの揺るぎなさと、奥行きや広がりを生み出している。

 丸山健二さんも望月通用さんも山下大明さんも、本物だ。本物には、くだらない見栄や、自分を大きく見せようとする姑息な自己演出はない。作品を見て判断してくれればいいと心がすわっている。繊細だけれど弱々しくなく、強靭な心を持っている。そしていつもギリギリのところに自分を置いている。

 今、雑誌などで、本来は黒衣のカメラマンやデザイナーやアートディレクターやスタイリストが、自分達がいかに優れた仕事をしているか、どうでもいいプロフィールの羅列と、過去の取り組み、現在の取り組みをインタビュー形式などで主張していたりするが、末期的な症状だ。作っているものが薄っぺらいから、一生懸命に箔付けして権威付けしている。

 私は、風の旅人において、作家や写真家などを権威付けするような内容のことをしたこともないし、プロフィールすらいれていない。 そんなくだらないもので紛らわされることなく、物そのものを見てもらいたいからだ。

 骨董屋の修行は本物しか見ない。偽物も本物も色々見て、違いを知る事で本物と偽物が見分けられると思っている人がいるが、頭の中で違いを整理することで本物がわかるわけではない。むしろその分別が目を曇らせてしまう。本物ばかりたくさん見ていると、偽りのものは一目見て見抜くことができる。

 プロフィールや,箔付けの記事ばかりに目がいってしまうと、物そのものがきちんと見られなくなる。

 写真も絵も言葉も、本物だけをしっかりと見ることが大事だ。

 本物を作り出している人は、実にあっぱれな生き方をしている。そして、あっぱれな生き方をしている人は、顔の表情や、瞳にそれが現れている。濁りがないし、温かいけれど、核心に触れる時は、恐ろしいほど厳しくなる。表現者であれ、学者であれ、作品は、作者を離れて一人歩きするというのは事実だが、それは、作者と作品が別物であるということではない。作者は畑であり、作品は収穫物だ。手入れの行き届いていない畑から、質の高い収穫物がコンスタントにできる筈がない。まぐれで一回か二回、うまくいっているようなものは、どうでもいい。そういうものは、この時代に腐るほどある。ワインなどでも、トップクラスのシャトーは、長い間、一貫して質の高いものを生み出している。信頼に値するというのは、そういうことであり、本物かどうかの基準もそこにあると思う。

 話が前後するが、大人が子供の信頼を得るためには、時おり家庭サービスをして子供のご機嫌をとったり、子供の為にという大義名分を振りかざしながら自分自身の生き方を問わない卑怯な態度をとるのではなく、人生の長い時間を通して、自分をごまかさず、軸のブレない姿勢を見せることが大事ではないかと思う。

 結果として子供に理解されなくても別にかまわない、悔いはなし、という潔さも必要だ。

 本当の意味で、子供の為になることは、大人が変わることなのだから。