生でもあり死でもあり

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 風の旅人47号→http://www.kazetabi.jp/ で屋久島の夜の写真を紹介する山下大明さんが、吉祥寺のオフィスに来て、校正を行なった。その時、この写真のように、なぜ、光キノコを写真に撮ると緑色になるのだろうという話になった。屋久島の光キノコは、自らを他の生物に食べさせて菌糸を運んでもらうために光っている。ほんの微かな光だが、真っ暗闇の森の中で、その光はとても目立つ。まさに、自らの死をかけて光っているわけだが、その時に、私は、同じく47号の風の旅人で掲載する志村ふくみさんのインタビューの話をした。染織家の志村さんが若い頃に謎だったのは、なぜこれだけ世界中に緑の植物が溢れているのに、緑色の草木から緑色が染まらないのかということ。その悩みで悶々としている時、シュタイナーの『緑は、生命の死せる像」という言葉に出会い、視界が開けたという。つまり、緑色は、それじたいが死の像であり、だからそこから色は染まらない。シュタイナー曰く、生そのものの色は赤だが、死が生を照らし出すと緑なのだ。
 古代エジプトにおいても、死を司るオシリス神の顔色は緑色である。そういう話をすると、毎晩のように夜の屋久島の森の中に入り込んで撮影をしている山下さんは、緑が死の色というのは、感覚的にすごくわかると言う。その上で、彼は、光合成で使われる色の波長は吸収されてしまうが、緑色が外に現れるのは、植物が吸収していないからなのだろうかという話をした。

 そういう話をFacebook上で書いたら、読者の方から以下のコメントをいただいた。

 「植物の緑波長に対する働きですが、実際には全く吸収しない訳ではなく、緑色光のエネルギーが強く、吸収し難いために、吸収し終えない内に葉から漏れ出てしまうだけなのです。また、緑の光は葉の内部で拡散し、光の当たり難い裏面にまで行き届いて吸収されるそうです。各色光を植物に当てる実験で、緑の光が最も光合成の速度を速めたという論文を書いている研究者もいらっしゃり、その方は「植物は緑色光を効率良く利用している」とおっしゃいます。」

 つまり、緑色は、光合成でも有効な光の波長であるが、光合成で使われるエネルギー量よりも、エネルギーが強いために、外に漏れて、我々の目に届くということか。

 カナダの北極圏にオーロラを見に行った時も、目に見えるオーロラの色は、ほとんどが白か緑で、ピンクや青は、ほとんど見られなかった。オーロラの緑は、酸素原子に電子が衝突して、励起(イオン化)した酸素原子が、緑色の光を放出して安定な状態に戻る過程で見られる現象だとされている。

 この世に緑は満ちあふれているが、緑色に見えるものは、エネルギーを緑色の光に転換させたり、緑色のエネルギーを吸収しきれずに外に漏らしているということだとすると、それじたいが緑色ということではない。緑色の植物は、緑色のエネルギーが外に漏れる事で緑に見えているのだから、その植物をいくら煮詰めても、緑色は出てこないのは当然ということになる。

 緑色は、やはり実態ではなく、像なのだ。シュタイナーは、緑色を、生命の死せる像と言った。ゲーテは、光と闇が結合すると緑色になると言った。いずれにしろ、生と死、光と闇といった、我々の感覚からすると両極にあるものが重なり合った状態で、緑色になる。

 生には常に死の陰が見え隠れし、死には常に新たな生命の誕生が見え隠れする。幸福の陰に不幸があり、不幸の陰には幸福がある。そうした世界を象徴する色が緑。

 多くの人が公園の緑を見て心が落ち着く理由を、とくに考える事もなく、それが自然だからという風に考えている場合があるが、我々の心が、一見、相反するもののように両極に引き裂かれた現実を一つに調和させる術を欲しており、それが、緑色を心地よく感じさせているのかもしれない。

 緑色の顔をし、冥界で死者を裁くオシリス神も、もとは豊穣神で、生命の象徴でもある。生と死は、別々に存在するものではなく、常に表裏一体であり、緑色は、私たちの五感、六感に、その真理を伝える色なのかもしれない。