「死」の力

Safe_image

 昨夜、京橋のzeit-foto-salonに、井津由美子さんの写真展を見に行った。

 http://www.zeit-foto.com/exhibition/2013/yumiko_izu.html 

 このホームページの写真では、彼女の写真の素晴らしさがまったく伝わらないのが残念だ。様々な動物の頭蓋骨の写真は、8×10の1.5倍くらいの大きなフィルムカメラで撮影し、プラチナプリントの密着焼きで制作されたものだ。
 デジタル全盛の時代に、敢えて、アナログに徹しきった作品。そして、こういう写真を見ると、あらためて、写真の力というのは、物質感と化学反応ならではの、時間の連続性が静止画の中に濃密に閉じ込められていることにあるのではないかと再認識した。
 私たちが生きている世界には、デジタル思考の0か1が削ぎ落してしまっている大切な情報が膨大にある。言うに言われぬもの。じっくりと耳を傾け、目を凝らしても、明確にはわからない、けれども、何かとても大事なもの。そういうものこそ、生きていくうえで、実はもっとも大事なもの。
 例えば「死」ということ。デジタル思考で、死を伝えると、『終わり」とか、「何もない」ということになってしまう。
 でも、私たちが避けて通れない『死」というものを、そのように処理してしまったいいのか。そのように処理することで、私たちの多くが陥っている深刻なニヒリズムから逃れることなどできやしない。
 デジタル処理を行なって、そのように決めつけてしまうことで、私たちは、生きていく上でとても大事な何かを失ってしまうのではないか。
 井津さんは、このシリーズの撮影にあたって、以下のような、微妙で深い諧調のある文章を残している。
「長時間露光の間に、微かに骨のきしむ音が聞こえたのは私の錯覚だったのか。
 鈍い光に照らされて、頭蓋骨の精緻な輪郭と、ぽっかりくり抜かれた空洞の目が浮かび上がる。
 朽ちた染み、表面を覆う無数の傷やひび割れ。
 時おりそよぐ風に微細な白い粒子が舞い、透きとおる殻の内側には巻貝のような螺旋の海が隠れている。
 命の不思議を凝縮したかのような脆く美しい存在。  
 そこに宿るわずかな生の残滓を捉えようとして、息を詰めたまま気配を追って行く。
 いつのまにか、見つめているはずの私が、見つめられていることに気付く。
 生と死が、時空の彼方で入れ替わり交わりひとつになる、そんな密やかな夢を見ました。」  井津由美子

 この言葉は、まさに彼女の、『頭蓋骨」の向こうにある「死」に向き合った撮影姿勢を現している。
 骨格というのは、実に不思議だ。骨になると、肉の時よりもさらに物質感が増す。肉は、いろいろな意味を纏いすぎている。それらの意味を削ぎ落していくと、物質つまり原子の塊であることが、より強く感じられるのだが、その原子の塊は、じんわりと何かしらのエネルギーを放出している。それは肉体に包まれていると聞き取りにくい声とも言える。そしてその声は、肉体をまとう自分の内側にも響いている。
 たとえば、”魂の声”という言葉を連想してみると、肉体がそこに横たわっているよりも、骨だけになった方が、魂の声のようなものが、聞こえてきそうになる。
 白川静さんの説明によれば、古代甲骨文字の『死」という字は、残骨を前に、人が身をかがめて拝んだ形になっている。

300pxbronzesvg

 この字は、死んだ人の前に哀しんでいるようにも見えるが、骨になる歴然たる事実の前に、驕らず、人が、身を屈めている形にも見えるし、骨と人間が手をのばしあっているようにも見える。(古代文字の人という字は、人が人を支えるというように意訳する人が多いが、そうではなく、大いなるものの前に身を屈めた形を現している)

 つまり、肉体というのは、やがて滅びる宿命であり、それは、人間にはどうしようもない、大いなる事実だ。その事実を語りかけてくるのは、肉を削ぎ落された骨だけれど、その骨は、自分の肉体の中にも歴然とある。
 骸骨に向き合うことは、自分の中の骨を意識することでもあり、
それが、古代文字の「死」という字の中にこめられているメッセージのようにも感じられる。つまり、死という漢字は、その漢字字体が、メメント・モリ(死を想え)なのだ。
 生きている自分の内側から自分に語りかけてくる声を、魂というならば、まさに魂は、自分の骨という原子の塊が発する微妙なエネルギーだとも言える。 
 それゆえ、肉が削ぎ落された骨は、より魂を感じさせる何かであり、だからこそ古代から今日に至るまで、人々は、骨を埋葬してきたのではないか。
 人が死んだら、肉体を焼いて、後に残った骨を拾い集めて埋葬することは、習慣化されて当たり前のことになってしまって、そこに深い意味を何も感じないけれど、誰しもその骨に何か特別な思いを抱く。骨には魂がこもっていると、人々は、潜在的にわかっているのではないか。
 こうした微妙な感覚、微妙な声を、表現という手段を通じて伝えていこうとすると、非常に繊細で、時間をかけて丁寧に取り組んでいかなければならない。
 デジタルの0か1という思考だと、きっと微妙で大切なものが削ぎ落されてしまう。
 骨を撮った作品を、今まで幾つか見た事があるけれど、それらは、メカニカルで造形的な美しさを感じたものの、じんわりと内側から語りかけてこられるようなものはなかった。後を引く触感のようなものが残らなかったのだ。
 だけど、このたびの井津由美子さんの、超巨大カメラで撮影して骨が発している念を封じ込めたようなフィルムを、引き延ばしすることなく、つまり等身大の密着焼きで焼き付けたプリントは、物を写すという程度の意味を超えて、まさに写真という字のとおり、真を写した物質に、限りなく近づいていこうという気迫を強く感じる。
 骨という存在自体が、肉体や動きや様々なものを削ぎ落した極めてシンプルになった存在であり、だからこそ、真理が剥き出しになるわけだが、真理の「真」という字が、首を引っくり返した、非常に呪力の強いものであるように、慎重に向き合わないと、自分に禍いが起る。それが、「真」だ。
 骨に向き合うということは、それだけの覚悟と気合いがいることであり、だから簡便にすますわけにはいかない恐いことだ。
 当然ながら、表現された『骨」を見ることも覚悟が必要だ。
 しかし、それだけ『死』というものを突き詰めて自分の中に置く事が、生のエネルギーになる。
 肉体が滅ぶことは避けられないゆえに、生ある自分の中にも、骨として、魂として、何か永遠性を帯びたものが確かにあるあることを意識し続けること。そこに、救いがある。
 「死」という古代文字には、そういう意味もあるように感じられる。
 死という文字は、骨に向き合い、身を屈めて、それを拝する形なのだから、決して、肉体の滅ぶ瞬間を意味していたわけではない。
 だから終わりではない。
 生きている自分の中にも、常にあるもの。そう理解したい。

 実をいうと、風の旅人の復刊3号は12月1日に発行され、今、最後の追い込みに入っているのだが、その巻末で、復刊4号の告知をしなければならない。
 そして、復刊4号のテーマは、「死の力」であり、これまで少しずつ構想を練って、少しずつ準備を進めていた。このタイミングで、井津さんの今回の写真と出会ったのは、偶然ではなく、必然だったのだろうと思う。
 万事において、次のものごとは、向こうからやってくるのではなく、すでに自分のなかに来て、骨のように宿っている。外に現われていないだけで、周りが削ぎ落されていくと、必然的に、その形が現れる。
 「死」と同じように。