不確定のままの深遠な対話を展開する場

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 昨日、京大の村瀬雅俊さんのゼミに参加。この4月に大学生になったばかりの学生達相手に、前もって何の打ち合わせもせずに、いろいろ話をすることになった。

 日本の若い人は、高校卒業するくらいまでは、かなり優秀。今日も、みんなしっかりと自分の考えを持って、本質的な質問をするし、かなりの手応えを感じた。
 大学一年、二年の過ごし方が悪いと、あっという間にダメになってしまう。
 大学三年になると就職を気にするようになって、世間の価値観に寄り添った思考になりがちなので、その前の二年間にしっかりと学習して、世の中に振り回されない自分を作って欲しいと思う。
 村瀬さんは、京都大学で、学際・国際・人際融合事業『知の越境』プログラム、【統合創造学創成プロジェクト】ということを行なっている。

http://www.nics.yukawa.kyoto-u.ac.jp/events.html

 湯川秀樹を輩出した京大の基礎物理研究所で、「生命」に科学的にアプローチしているのだけれど、生命というものをとらえるために、専門領域の垣根を超えて総合的に研究を行ない、同時に、今日の科学が陥っている要素還元的な研究ではない方法を構成しようとしている。私は科学者ではないけれど、村瀬さんの本を読んで、自分のやっていることとの共通点を色々感じるところがあるので、何も打ち合わせをしなくても話はズレないという妙な確信があった。

 村瀬さんと会ったのは一週間前で、その時もそんなに長く話しをしたわけではないけれど、ピンとくるものがあり、この数日、村瀬さんの「歴史としての生命」という大著を読んでいる。ジュリアンジョインズの「神々の沈黙」とか、カレンアームストロングの『神の歴史」とか、井筒俊彦の『意識と本質」を読んだ時と同じような、これだ!という手応えを感じるものがあった。

 それで突如、村瀬さんから、ゼミに来て話をしてくれという話になって、具体的に何をすべきかという話は何もなかったけれど、躊躇は少しもなかった。

 必然の波、というものを感じたからだ。シンクロニシティというものは、このようにして起こるということを、自分の経験上、わかっている。
 それで、今度は私の方から村瀬さんに提案。村瀬さんが、たとえば素粒子理論の研究者とか、知の最先端の領域について研究者同士で食事でもしながらディスカッションをやる機会がある時に、それを町家とか、20人〜30人くらいまでは入れるような場所で公開でやってくれという話をした。
 シンポジウムとか大学やセミナーの講義のように、聴衆を意識する必要はまったくなく、科学者同士が、ああだこうだと熱く言い合うのを、そのまま公開でやるということ。聴いている人が理解できるだろうかとかいっさい気を使う必要はなく、わからないものはわからないままでけっこう、というスタンスで、生のままやり合う。聞き手に対するサービス精神なんていっさい必要なし。

 聞き手にわかりやすく伝えるということは大事なことかもしれないが、そんなものは、あちこちでやっている。そして、そうした配慮は、微妙なものを削ぎ落してしまうことがあり、削ぎ落されたものの中に、本当に大事なものが潜んでいる場合がある。

 また、シンポジウムとか講演会などに出るくらいなら本を読んだ方がいいという人もいるので、不確定なものを不確定なまま、相手の考えに触発されて自分の考えを深めるという生の現場に触れることに意義を見いだす人のために、場を作りたいと思う。

 なにより、最先端の議論を当事者達だけでやるのはもったいない。
 村瀬さんも、それは面白いという反応なので、そういうものも「風天塾」でやりたいと思います。
 イベントとか講演会のように、かなり前から内容を決めて打ち合わせをして、という手順を踏むのではなく、即興でやればいいと思う。私は、だいたいいつもそうしているけれど、その方が、集中力も高まる。
 村瀬さんが誰かと会ってディスカッションをするということになったら、私に連絡がきて、場所などを決めて、それを告知するという方法をとりたい。
 FacebookTwitterでも告知はしますが、見逃す事もあると思うので、確実に、そういう情報が欲しいという人は、メルマガにメールアドレスを登録しておいてください。
 東京から写真家や作家が京都に来るタイミングに合わせて何かやるよという場合も、同じように、短期間のうちにささっと決めて、やります。
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歴史としての生命―自己・非自己循環理論の構築