世界を見る眼を変え、意識を変える写真の力

 

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 私が日本で最も尊敬している写真家の一人である鬼海弘雄さんと話していると、「写真が撮れない」という言葉がよく出てくる。

 「写真なんてシャッターを押せば写るのだから、写真が撮れないという意味がよくわからない」という人もいるだろう。
 写真が撮れないというのはどういうことか理解するために、写真を詩に置き換えて考えてみればいいと思う。
 日々の生活の中で感じたことだけを綴ればいいのであれば、詩を書くことは簡単なことかもしれない。
 花だとか月を愛でたり、好きな人への思いを打ち明けたり。巧いか下手の違いはあって、巧く書くのは難しいかもしれないが、それは詩を書けないという意味ではない。

 写真表現もまた、その程度でいいのであれば、写真を撮れないと苦悩することはない。
 鬼海さんが、写真を撮れないと言う時、巧い写真を撮るのが難しいという意味ではない。写真として成立しているか、そうでないかという問題だ。
 そこで、写真として成立するとはどういうことかという問題になる。詩の場合も同じで、ただ感傷的に思いを綴るだけで、詩として成立するということにはならない。
 しかし、詩人が昔ほど尊敬されなくなり、詩の影響力はほとんどなくなってしまっている現代において、詩の成立を定義付けすることじたいが難しい。ヒットした歌謡曲の歌詞もまた詩ということになり、大勢の人が共感するものが優れた詩ということになったりする。
 現代では想像しにくいことだが、150年くらい前までは、詩人の創造する詩が、音楽や絵など他分野の表現家達の魂を触発していた。詩人の喚起するイメージは、他の表現者達が表現活動を行なううえで、とても重要だった。だから詩人は尊敬されていたし、表現界の中心人物だった。ボードレールにしても、ランボーにしても、大きな影響力を誇っていた。彼らの魂が生み出したイメージが、世界を切り開いていたのだ。
 詩を書くというのは、そういうことであり、世界を切り開く言葉に簡単に手が届かないから、詩を書けないと苦悩することになる。
 現代の詩人や詩に対して、時代を切り開く役割を期待している人は、あまりいないかもしれない。優れた詩人が存在しているかもしれないが、情報過多の社会の中で完全に埋没してしまっている。
 写真も詩と同じで、安易に日常をなぞったり、感傷的なビジュアルを写すことを目的にしている人にとっては、簡単なことかもしれないが、世界を切り開くイメージを探っている写真家は、写真が簡単に撮れないと苦悩することになる。
 私は、150年前まで存在しなかった写真表現が、この150年のあいだに、それまで詩が果たしてきた役割を、果たせるようになっていると考えている。
 写真家の切り開く世界が、他の表現者達の魂を触発する可能性が、大いにあるのだ。
 しかし、写真に携わっている多くの人は、言語の付随物のようなポジションに甘んじている。それは、カタログ雑誌などにおいて、言語で何かを説明する時に、説得力を強めるために写真を使ってもらうというスタンスだ。もしくは、既に言語化されているコンセプトを表すイメージを作り出すという写真行為もある。言語よりも写真の方が伝わりやすいという理由で。
 そうした写真の使われ方は、慣習化された世界認識が前提になっている。世界の新しい捉え方ではなく、これまで通りの、社会的通念として常識化されてしまっている概念をなぞるだけのものであり、その方が、社会において換金化しやすい仕事になる。残念なことに、多くの写真は、既成概念を固定化するためだけに使われており、そのことに対して猛烈な反発を感じている写真家は、ほとんどいない。
 写真は、既成の世界の見方、感じ方、捉え方を揺さぶる力がある。揺さぶられてこそ、人の眼は開かれる。
 認識の固定というのは、世界を自分の都合がいいように処理しているだけであり、それは、生命体としても危険な状態である。なぜなら、本当の世界は、そんなに単純なものではなく神秘に満ちたものであり、そのことがわからないと、自分の理解を超えたものに出会うたびに、不安と恐怖で必要以上に自己防衛を行い、激しい軋轢を生み出したり、さもなくば、ひたすら眼をそらして逃避したり、委縮するしかなくなる。
 写真は、真実を写すと書く。真実の”真”とは、既成の世界認識を揺さぶる力であり、だから、真という文字は、首がひっくり返っている形なのだ。
 世界を見る眼が変われば意識が変わる。意識が変わると世界が変わる。
 私が写真に期待する力は、150年前までの詩がそうだったように、世界を見る眼を変える最初の波紋を、心に生じさせる力である。


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