今後、年に一冊ずつ写真集を制作していきたい。
世の中には、簡易な作りの写真集が数多く発行されているが、一生の間、手元に置き、じっくりと何度も見る価値のある写真集を作る必要があると私は考えている。
20世紀は、映像の時代だった。写真や動画が、人々の精神に与えた影響は計り知れない。にもかかわらず、多くの人々は、そのことに無自覚で、学校教育においても、写真や映像の授業がない。
専門学校や大学の芸術学部などで写真を学ぶ場はあるが、その大半が、カメラや現像のテクニックや、歴史、ジャンルなど博物学的な知識情報にすぎない。
学校教育などにおいて国語の学習を行なうのは、言語情報を蓄積するためだけでなく、言語による思考力や、言語の背後にあるものを捉える力を養うことが大事である。そうした力を身につけていないと、社会生活を行なううえで、言葉に翻弄され、欺かれ、誤解を生み出し、軋轢を生み出す原因となる可能性があるからだ。
ならば、これだけ世の中に写真・映像が氾濫する時代において、写真・映像を通した思考力や、その背後にあるものを捉える力を養うことは、同様に大事な筈なのに、文部科学省には、そうした意識は欠落しているし、国民からも、そうした声はあがらない。
”国際化”という名の、他人の目ばかりを気にする自己研鑽に励むことをよしとする風潮のなかで、自分ならではの視点を磨くことは疎かにされている。
今日の世界に氾濫する写真の大半は、カタログ写真のように現象の特定の一面を静止させ固定してしまうものだ。それはコマーシャルだけではなくニュース報道などにおいても同様である。
そうした種類の写真を見る人が、写真・映像に対して無防備だと、その人達の視点と意識は、無自覚のまま、既成の概念の中に固定してしまう。
視点や意識が、既成の概念に固定してしまうと、AはBになり、BがCになり、CがDになるという定型の因果律の連鎖に縛られて生きることになる。
いい大学に入るから、いい就職ができて、いい就職ができるから、いい結婚ができて、いい人生を送れると。
その”法則”を信じて(心底信じていないけれど、そういうものだと決めつけて)努力をするわけだが、実際の世界は、そのように単純にできていない。単純な部分、レギュラーな部分、誰が見ても同じ部分はあるけれど、誰が見ても同じにならない部分や、自分自身でも見れば見るほど新しい部分が見えてくることもあり、それに気付いてはいても、例外扱いをすることで除外しているケースが多い。
それでも、実際の世界は、A→B→Cになっているとは限らず、Aは、Bを前提とすることでそうなっていたり、CがBに影響を与えていることも多い。
いい学校に入るから、いい就職ができるのではなく、いい就職をするために、いい学校に入ることが当然であると概念化されていて、大勢がその概念に盲目的に従うことで既成事実化していることが多い。
その既成事実は、大勢の人々の固定概念に基づいてそうなっているものだから、極めてヴァーチャルであり、人々の概念が変わっていくと、事実も変わってしまう。せっかくいい学校を卒業したのに、就職がうまくいかない、約束が違うじゃないか、という結果になることはザラだ。いい就職(就職先の人気企業、人気業界)という概念は、10年前、20年前と激変している。
だからといって、既成の概念を壊すためだと主張して、「こうしたケースもある、ああしたケースもある」と、ただサンプルを並べるだけの主張もけっこうあるのだが、そういう主張の積み重ねは、世界イメージをバラバラに分散させるだけで、新しい意味を獲得していく力になっていない。「既成概念の破壊」を主たる目的としたアート表現は、そういう傾向にある。新しい意味の獲得など必要はない、まずは破壊だと言い逃れすることは簡単だが、既成概念と異なるサンプルの提示は、既成概念の世界の中では、例外としてしかカウントされない。
やはり人間というのは、いくらサンプルを集めても、そのサンプルの集積に人生を賭けることはできず、統一的な視点で、「世界はこうなっている」という理を欲している。
その理に適うように自分の智と識を発動し、展開し、世界の中に循環していくことを望んでいるし、その可能性を見いだすことができないからニヒリズムに陥るのだ。
(現代アートの表現者も、サンプルの提示だけでは満たされず、けっきょく、既成世界が定める権威や評判や成功を欲し、既成世界のサクセスストーリーを歩むことを自分自身の目的とする陳腐なケースが、あまりにも多い。その多くが、流動化する世間の価値観に弄ばれる)
それはともかく、世界の普遍的で根本的な「理」と、自らの主体性によって世界にコミットできる「智」・「識」の二元的な価値観の統合を目指していく精神の運動が、両界曼荼羅で表されている。「理」が胎蔵界曼荼羅で、「智」・「識」が金剛曼荼羅だ。
そして、写真表現というものも、本来は、世界の「理」と、自己の主体性の反映である「智」・「識」を統合する試みである。いくら客観的事実を写そうとしても、その場面を区切る自己の内面の状態が反映される。また、自己主張の為に写真表現を行なう場合も、世界にカメラを向けねばならず、けっきょく、どういう世界認識を持っているかが表れる。
写真表現によって目指すものは、表現者によってマチマチであるが、既成の言葉で記述できる側面のみを強調したものは、複雑で豊かな世界の生命を殺してしまう。
近代文明を讃える表現も、非難する表現も、秩序から外れた例外的面白さも、空虚も、孤独も、わざわざ写真・映像を持ってこなくても、既成の言葉で記述され尽くしている。
既成の概念が解体されると同時に、新しい意味を獲得していくような、複雑な現象(世界)と向き合ううえで、これまでにない智・識の力が発動するような写真こそが、今日的な言語と写真によって固定された意識を揺さぶる力になる。
そういう写真は、見る人の視点を変え、意識を変え、世界の古い捉え方が壊れ、世界が新しい意味を持つ気配を伝える現代の曼荼羅と言って差し支えないだろう。そんな写真も世の中に少なからず存在しているが、残念ながら、目先の実用性や娯楽情報を求める風潮の中に埋没しがちだ。
その埋没の中から、これはと思う写真を掬い出して、その力が引き出されるように構成した写真集を丁寧に作り、人々が、カタログやファッションとは異なる写真の畏力を再認識できるような機会を作り出したいと私は考えている。
その第一弾として、森永純さんの最新写真集「WAVE 〜All things change」が間もなく完成する。
ユージンスミスが号泣した「河〜累影」の写真集後、一冊も写真集を出さなかった森永純さんが、30年以上かけて撮りため、厳選した「波」の写真集だ。
若くして写真界で名が知られるようになった森永さんだが、その後の数十年は、権威や業界の力関係、評判や他人の目など、まったく無頓着に、ひたすら自分の魂が求めるものを追求してきた頑固な写真家で、考えの食い違いで、多くの編集者と喧嘩別れをしてきたそうだ。
森永さんにとって二冊目の写真集『「WAVE 〜All things change」は、ここ数年、森永さんと対話しながら取り組んできた企画だが、ようやく本体の印刷を終え、後は、セット箱の制作を行なう段階となり、8月中旬の完成を目指している。
長く手元に置いていただき、時おり、静かにページをめくり、写真世界の中に意識を没頭させる。そうした向き合い方に耐え得る写真集にしあがっているのではないかと思う。
ここにあるのは、曼荼羅のような全体と部分が響き合い、美しい複雑系の世界を生み出す万華鏡のような波。
「すべては発動し、すべては循環する。」という、世界と自分自身の本質的な在り方が、その美しい複雑系の世界と重なり合って、新しい意識と視点の揺籃となる。
詳しくは、こちらのホームページで。
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