第2回 風天塾開催 学びとは何か?〜カオスと科学、芸術〜


日時: 2014年8月30日(土) 開場:午後5時〜  開演:午後5時30分〜午後8時30分

*今回は、第1回に比べて、後ろの時間に余裕がありますので、懇親会形式で、延長線を行なう予定です。

場所: IMPACT HUB KYOTO(虚白院) 〒602-0898 京都市上京区相国寺門前町682

語り手:池田 研介(複雑系物理学)×村瀬雅俊(生命基礎理論)×佐伯剛(風の旅人 編集長)

風天塾への参加希望の方は、こちらよりお申し込み下さい。→

第2回 風天塾テーマ

「学びとは何か? 〜カオスと科学、芸術〜」

 科学者は、この宇宙を貫く規則性を探求してきました。そして、幾つかの重要な法則を発見しました。しかし、この世界には、私たちが日常的に眼にしていながら、その規則性を解明できていないものが多く残っています。

 例えば、波の動きとか川の流れ、そして、空にたなびく煙など乱流と呼ばれる現象は、その変化していく様がとても複雑です。しかし、我々の眼には不規則に見えても、その振る舞いは、何かしらの統一的な規則によって引き起こされているのではないかと予感させるものがあります。ランダムに変化しているのではなく、一定のパターンがある。そのパターンに、なぜか私たちは美を感じ、心を惹き付けられる。
 そのように、人智で計り知れないものの、何かしらの規則性によって生じていると感じさせるパターンが、カオスです。カオスは、古代から混沌と訳されることがありますが、それは決して無秩序という意味ではなく、他者と共有できる形で概念化できていない自然界の摂理なのです。
 古代神話の中で、混沌から視界が晴れ渡っていくという描写が多く見られますが、それは、人間が、世界の捉え方を共有していく様を伝えているのかもしれません。 
 近代科学は、要素還元的なアプローチで、世界の原理を解明してきました。
しかし、その手法は現象のある一要素をスタティックに記述することに長けていても、ダイナミックに動き続ける世界の全体像を捉えることは苦手です。その結果、全体が要素ごとに細分化され、要素ごとに探求する専門家ばかりが増え、各要素の関係が見えにくくなり、全体像がますます複雑化する状況になっています。
 そして、多くの人が、科学の成果を疑うことのない現代社会においても、まわりを見渡せば大半がカオス状態であり、重要なことが解明できていません。天気や地震などの自然現象だけでなく、株価や為替などの経済指標も、カオスです。心拍や脈拍、呼吸など身体の生理機能もそうですし、それらと連動している可能性がある心の動きもそうです。一人ひとりの人生もまた、就職や進学をはじめ単純な原理で幸福の手引きを行なう言葉が、教育界やメディア社会に溢れていますが、複雑な因果が重なり合ってそのとおりにはならず、想定を超えたダイナミックな展開になっていくのが普通です。
 それでも、色々複雑な経路を辿りながら、最初からそこに辿り着くことが決まっていたかのように、感じられる瞬間もあります。
 予想の範囲を超えた展開を面白いと感じるか、不安や不快感が募るだけなのか。その違いは、カオスの中に何かしらの摂理を感じるか、それとともただの無秩序と感じるのかによって、生じてくるのかもしれません。
 それは芸術作品を見る場合でも同じです。既成概念の枠組みの中に簡単に整理できるものは、人の心を揺さぶる芸術的な力を持つことなく、虚栄を満たす装飾品としての実用価値でしかありません。インテリアとして売りやすい”アート作品”は、その類のものでしょう。
 ”前衛的な”という言葉も既に既成概念になってしまい、だからこそ一種のファッション(虚栄)になっています。
 それに対して、「既成概念の枠組みにとらわれず、自由に!」という掛け声のもと雑多な現象をランダムに実験的に提示するだけでは、ただのサンプルの集積になってしまい、そこから新しい世界認識が生じる予感が得られず、けっきょく見飽きてしまいます。
 いずれにしろ、方法論は一見多彩に見えても、その多くが既に言語によって説明され、消費されている既成概念の範疇の出来事です。予想の範疇だからこそ、安心して触れることができ、消費経済に順応できるとも言えます。
 もしも芸術が、世界の本質に向き合うものであるならば、芸術もまた、川や雲の流れのようにカオスの生命を宿らせている筈です。
 揺れ、うねり、反映し、変動し、形を生み出し、静止し、一新するエネルギーを秘めています。
 そして、見れば見るほど新しい部分が見えてくると同時に、世界の核心に近づいていくような予感(決して到達できないものであるにしても)を与えるものが、時代を超えて人々の心を惹き付けてやまなない芸術作品です。

 私たちは、学校教育や、マスメディアが発信する情報などを通じて、この世の規則を学んでいきます。しかし、その規則の大半は、誰にとってもわかりやすいように、原因と結果を結びつけやすく、その因果関係をきちんと説明できる標準的なものであることが前提になっています。さらに近年は、政治も含めて、”わかりやすさ”が社会的に重宝されていますので、内容が込み入ったものや、曖昧なもの、関係を説明しずらいものは、どんどんと排除されています。
 つまり、実際の現実ではカオスに囲まれて生きていながら、単純化され、わかりやすく整理された説明を現実だとみなし、それを自分の人生の拠り所にしている。
 世界と人生がカオスであるかぎり、そうした偏狭な”学び”が、世界と人生を豊かなにする手立てになる筈がありません。
 学ぶことも、本来はカオスです。筋書きがあるわけではないけれど、どこかに一貫性がある。複雑な世界、複雑な人生に対応するために、自分の意識を既成概念に固定してしまうことなく、自分の理解を超えるものに近づくために、様々な要素に眼を向けながら、その本質を捉えようとする。だから、常に揺らぎが生じる。その揺らぎの先にこそ、新たな世界像の認識と創造があることは間違いないでしょう。

Kz_48_h1_3

風の旅人 復刊第4号 「死の力」 ホームページで発売中!

メルマガにご登録いただきますと、ブログ更新のお知らせをお送りします。

登録→