今ここ、あるいは、ここでないどこか

 5月30日、コニカミノルタで行った私と田口ランディさんのトークにご参加いただいたみなさん、どうもありがとうございます。
 本番の一時間前に来て、少しくらいは打ち合わせでもしようかと思っていたのですが、ランディさんが10分前に来たので、ぶっつけ本番になりました。でもまあ打ち合わせをしてしまうと、その時点で既に話をした気分になってしまうから、何もない方がよいのかもしれません。
 そのトークにおいて、わざわざ京都から来ていただいて、丁寧な感想を送ってくれた若い写真家がいました。その文面に、とても感動しました。トークをほめてくれたからというより、ここまで人の話を聞いて深く消化してもらえる人がいるということに希望を感じるとともに、この方の感想を読んで、私自身、漠然と感じていたことが、よりいっそう明確になったのです。
 以下に添付した感想のなかに書かれているように、確かに私は、日常の物理的に移動を介さない同空間で、日常と旅、彼岸と此岸の狭間を行き来する時、空想よりも<もの>が介在することが多いです。たとえば、庭の樹木、子供のふるまい、写真、絵、世界各地から集めてきた怪しいものたち、鉱物・・・、とりわけ年輪を重ねたものに触れていると、それだけで、「今ここ」と、「ここでないどこか」の境界がなくなっています。そして、強い念の力を持った写真家たちや作家と出会う時もそうです。この現実には、此岸の濁った溜まり水に引きずり込まれるような出会いも数多くありますが、此岸と彼岸の境界が掻き消えてしまう時間を共有できる出会いも多くあります。
 此岸の淀みに落ち込んでバイオリズムが低下した時は、自棄酒を飲んだりするよりは、そういう人やものと時間を共有するのが一番です。
 私は、バイオリズムが低下した時にランディさんと会うと修復することが多いのですが、そのあたりの理由が、今回いただいた感想によって、より明確になりました。
 下記の感想に書かれている「男なるもの」と「女なるもの」についての考え方は、以前から自分の中にも明確に意識していたことですが、そこから先の「二つの調和」については、考えが及んでいませんでした。
 この場合の異なるものの「調和」というのは、緩く収まった不自由な静止状態(妥協のようなもの)ではなく、混沌と紙一重の緊迫感のある秩序状態であり、激しい運動を内に孕み、活力に満ちています。 
 そうした「調和」は、高エントロピー(混沌)の状態から、低エントロピー(秩序)の状態へ、「閉じた系の中では、エントロピーは常に増大する」という熱力学第二法則に反した魂の運動を行い、魂に強い負荷がかかることで成立するわけですが、その負荷が、なぜか魂を活性化させます。そこに生命が成立する根元的な理由があるように思われてなりません。
 話はややこしくなりました。私の話はともかく、トークで話を聞いていただき、触発があり、その感想をいただいて、さらに触発があるという”出会い”の力に対する希望を感じさせてくれる「感想」を以下に添付させていただきます。

佐伯様

先日は素敵な対談をありがとうございました。
 自分の中にある感覚が言葉になって出てくるタイミングはいつも特別な時で、今回の対談がひとつの特別な時になりました。思考の泉がブクブク沸いてくるようで、僕にとって有意義な時間でした。
  また、漠然とか発することができなかった質問に、お二人それぞれの視点で丁寧にお答えいただき、対談の内容がより一層自分の中で大きなものに膨らみました。
 お答えいただいたことについて、感じたことがございましたので、メールさせていただきました。
  物理的な移動を介さない同空間での日常と旅、此岸と彼岸。褻と晴れ、生と死。こういったものを両性具有のように同空間で所有する場合の、その狭間についてのお二人の捉え方に生じたそれぞれの特徴が、私が普段考えつつあったことと呼応され感動を覚えました。
 それは、「女性の力」と「男性の力」の相互補完的であって相違する部分が、見事に現れて調和したという感動でした。
  私が捉えたお二人からのお答え、
 田口さん・・・常にその狭間をビックリした際などに、かなり<日常的な行為として行き来>されている。
 佐伯さん・・・狭間を意識したり乗り越える際に<「もの」が介在>することがある。
主観に偏った話になってしまいます、私は柳田國男さんの本に出てくる「妹(いも)の力」というキーワードに関心があります。このキーワードを出発点に身勝手な解釈かもしれませんが、女性と男性の力それぞれの特徴として、シャーマン的な素養の豊富な女性と、構築や蓄積の素養の豊富な男性(現代社会が極端に偏ってしまった部分)を考えています。別の視点では、構築し蓄積し固めて作り込みそれを守るために外に出て行く男と、時として男の作ったもの一瞬にしてキャンセルでき、ニュートラルに帰して開放し、癒し(現代は癒しではなく男のプライドへの損傷と捉えられているように感じますが)、土壌の毒素を取り払って浄化し、改めて育む土壌を用意するために内へ内へと向かって行く女。僕はこんな風な仮説を男女について抱いています。こういった男女の力が調和する社会が、僕の一つの理想なのですが、特に西欧社会の「魔女狩り」などに代表される多くの出来事から、現代西欧文化圏を中心とする現代文明圏で女性の力は極端に虐げられ弱まりきってしまったと捉えてきました。女性の力の弱まりに拠って、人類が本来持っている浄化機能が弱まり、現代の多くの諸問題を抱えていると思っています。
  脱線してしまった話を戻しますと、私が今回の対談をどのように感動したかお伝えしたかったのですが、お二人からいただいたお答えを伺って、対談の場で僕が感じた、「起きていたこと」を認識できました。お二人の「男の力」と「女の力」のバランスがものすごく生き生きと鬩ぎ合い調和していた場だったと感じました。自在に浮遊してゆく田口さんの体験談を中心としたお話に、佐伯さんが頃合で奇跡的に発した言葉で、グルリとテーマの頭上に昇華された形で戻っていく話の流れを何度も目にしながら、対談の場が日常と旅の世界を行ったり来たりしていたのだと感動の泉の根源を自分なりに見つけました。
  陰陽のシンボルが象られているようで、これが本来の人間社会のバランスの、一つの理想系なのだろうと感じました。
 そして常に変化して昇華していっているように感じている「風の旅人」の先端に触れた気がしました。最後の砦といっても過言ではない「風の旅人」とこの雑誌が共有している「場」の力を頼もしく思います
自己中心的な捉え方で勝手な感想になってしまっているかもしれませんが、お伝えしたくなり、メールさせていただきました。