表現行為の必然性について

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(撮影・にのみやさをり)


 風の旅人の第47号(12月1日発行)のロングインタビューをお願いした染織家の志村ふくみさんは、今年89歳になるが、染織に本格的に取り組み始めたのは30歳を過ぎてからだった。
 子供が二人いたにもかかわらず、結婚生活にも行き詰まって、自分の人生にも行き詰まりを感じていた志村さんが、第二の自分の人生はこれしかないと思い詰めて、30歳の頃、自分の全てを染織りに投入した。89歳まで一心に続けるのであれば、30歳頃から初めても遅くはないということだ。 
 そんなことを思っていた先週半ば、天気が良かったので、気分転換をかねて公園と美術館の両方を楽しめる世田谷美術館までドライブをして、そこで驚くべきものを見る事となった。
 世田谷美術館で行なわれているのは、『アンリ・ルソーから始まる素朴派とアウトサイダーズの世界」という展覧会だ。

 ルソーは、40歳を過ぎた頃から絵画制作に取り組み始めたので、かなり遅い。しかし、この展覧会で紹介されている素朴派の人達は、ルソーの比ではない。たとえばアメリカの国民画家になったグランマ・モーゼスは、リュウマチで好きな刺繍ができなくなった75歳から独学で絵を描き始めて、101歳で亡くなるまでの大量の素晴らしい絵を描いた。また、二歳の孫娘に送る絵手紙から素晴らしい画家になったグランマ・フラン。奴隷の子をして生まれ、奴隷解放後も含めて70年間農場で働き、働けなくなってからは生活保護を受けながら路上生活をし続け、85歳で突然絵を描きはじめたビルトレイラー。道路工夫や船乗りをしながら生きてきて、70歳を超えて21歳年上の妻が死んだ淋しさを紛らわすために独学で絵を描き始めたアルフレッド・ウォリスなど、芸術教育などまったく関係ないところで、自らの衝動で絵を描き続けた人達。それらの絵が、ほんとうに素晴らしく、びっくりする。

 また日本人では、山下清の素晴らしい貼り絵も展示されているが、私が衝撃を受けたのは久永強さん。シベリア抑留時代の絵を描いているが、壮絶極まりない世界が、絵ならではの表現世界で描き出されている。
 この人も60歳をすぎて絵を描き始めるのだが、ある日、シベリアの抑留生活を記録した他の画家の絵の展覧会を見た時、何時間もそれらの絵を見続け、しまいには疲れた足の靴をぬいで裸足になって手に持って見続けて、そのうえで到達した結論が、「これは私の知るシベリアではない。私の知るシベリアを描かなければならない」という衝動に貫かれ、描き始めるのだ。そして、描きはじめた途端、無念のまま死んでいった戦友たちの顔が次々と脳裏に現われたと言う。写真の記録では伝わらない、絵ならではの、情念のこもった凄まじい世界が展開されているのだが、単に壮絶なだけでなく、死んでいった者達の魂の救済を願う強い気持ちが、絵筆によって昇華され、何とも言えない深い詩情に到達している。シベリアの森の上、空を飛び交う無数の渡り鳥の小さな一羽ずつが、とても丁寧に個性的に描かれ、鳥達に死者の魂が反映されていることが、とてもよく伝わってきて胸を打たれる。
(久永強さん→http://www.hisanaga.jp/siberia/index.htm
 これらの絵を見ると、現代アートと言われるものが、何とも嘘っぽく、小手先のものに見えてくる。
 絵を描かざるを得ない内的な衝動の凄まじさ。絵に限らないだろうが、表現の力は、まさにそれに尽きる。そうした衝動や、内的必然があれば、技術は、後からついてくるということだろうか。
 また、彼らの絵の魅力は、表現に向かう純粋な気持ちだけではなく、世界を俯瞰するような眼差しが、随所に感じられるのだ。細部がとても克明に描かれているものばかりでなく、世界全体が、大きな視点で捉えられている絵も多い。目の前にあるものだけを一心に見つめているのではなく、自分が心惹かれるそのものが、世界全体の中でどういうポジションにあるかという視点も備えている。つまり、部分も全体も見ている眼差しを感じるのだ。
 いわゆる現代アートとか、趣味の絵には、こうした両極の眼差しはないことが多い。、全体をコンセプチュアルに、恣意的に、独善的に描いたものや、花や人物など、目の前にあるものしか見えていないという絵は、世の中に非常に多い。
 素朴派の人達は、なにゆえに、世界全体を見渡すような大局的な視点と、細部を丁寧に見届ける微視的な視点を持ち合わせているのだろうか。
 上に述べた久永強さんの絵にしても、シベリア収容所のロシア人監督者の顔のアップの絵と、シベリアの広大な森の中で過酷な労働に従事する小さな日本人捕虜の絵は、視野の大きさとしてはまったく異なるが、本質として同じものを伝えてくる。久永さんにとって、自分の目の前で自分に迫ってくる人物も、自分が置かれている世界全体も、自分の存在を危うくする恐ろしい存在であり、その存在に対して魂で立ち向かい続けることで、かろうじて生きのびることができた体験と記憶が、根底にあるからなのだろう。
 そういう意味で、素朴派の人達の人生は、とても興味深い。農場の手伝い、道路工夫、見せ物のレスラー、苗木商、日雇いの靴直し職人、トラックの運転手、炭坑夫、羊飼い、庭師、漁船の船乗りなど、肉体労働が多いし、経済的にもあまり恵まれた仕事とは言えないものが多い。過酷ではあるけれど、毎日、単調な作業をしながら、休日の暇つぶしに何をするかと考えるような空虚な人生ではなく、全身全霊で生きざるを得ないということでは一致している。そういう状況では、自分の目の前にあるもの、そして、自分が置かれている世界そのもののリアリティを、身体が記憶として蓄積していくことになり、絵画表現を通じて、そのリアリティがアウトプットされるのではないか。どういう絵を描けば人に受けるか、好まれるか、評判になるか、売れるかといった卑小な気持ちで、頭でっかちに絵筆を動かすような描き方からは、かけはなれているのだ。
 今回の展覧会にはなかったけれど、筑豊炭坑の記憶を絵に残した山本佐兵衛さんなども、間違いなく、その一人だ。http://www.y-sakubei.com/
 
 私は、風の旅人を通じて、多くの写真家と接しているが、胸を打つ写真も同じだ。私は、いわゆる人に受けそうな写真というものには、まったく興味がないし、アートを気取ったようなものも掲載したことがない。ストリートのスナップ写真で”現代”を写しとったとか、わざとピントを甘くして優しさと癒しを感じさせるとか、想像力を刺激するイメージであるとか、色や形などのデザイン優先で、それを現代性と称するものとか、みんな嘘だと思っている。ようするに、自分の中に表現に対する強い必然性がなく、でも世間に認められたいとか、人に褒められたいとか、カッコいい、イケテルと思われたいとか、虚栄心が自己主張につながっているだけのことで、その種のものには、自分が向き合っている対象のディティールも、自分が置かれている世界全体の生々しいリアリティはどこにもない。さらに、その程度の表現世界をより複雑にしているのは、それら空虚な産物をまとめて”現代性”だと評する頭でっかちの評論家や、好きか嫌いか、フィーリングは人それぞれだと詭弁を弄して、実のところ消費社会に媚びているだけの解説者が多くいることだ。
 風の旅人の復刊第3号(47号) で紹介する写真家も、それぞれ強烈な内的必然で写真と向き合っている人達だが、とりわけ、にのみやさをりさんは、素朴派の絵画と、非常に通じるところがある。
 彼女は、自ら、性犯罪被害者であることを公言し、自分と同じ被害を受けた女性達の電話相談窓口を自分で開設し、その活動しながら、写真を撮っている。彼女もまた素朴派の人達のように独学で写真を撮っているが、写真を撮ることで自らの魂を救い、その写真の力で、同じ性犯罪被害者の女性達の魂を救う道を探している。
  写真家や画家になりたくて、カメラを持ったり絵筆を握っているのではなく、自らの魂を救うために、それが必要なのだ。だから、その表現が、他の人達の魂を救う力になる。
 風の旅人の復刊3号(47号)でも、性犯罪によるPTSDで苦しみながら、自死への衝動を抱えながら、癌に冒され、さらに五年後の生存率が5%の難病・サルコイドーシスであることもわかり、自分が望もうが望むまいが”死”の現実を引き受けざると得ない女性の姿を、春、夏、秋、冬と追い続けた写真を紹介する。
 とてもデリケートな写真なので、一般の雑誌ではとりあげにくい。写真集だと、他の一切の情報を入れずに、その世界だけで純粋に作り上げることは可能だが、雑誌の場合、他の写真との関係で、真意を歪められる可能性があるのだ。
 しかし、こういう写真こそが、風の旅人でないと紹介できない、他の雑誌ではきちんと伝えられない、こういう写真をきちんと紹介するために、風の旅人という媒体の存在価値はあるという自負。せめて、それだけでも失いたくはないという思いで誌面を作った。
 素朴派の人達の作品を見て、そして改めて、風の旅人に紹介する写真家達の写真を見つめ直して、ならば風の旅人を10年間にわたって作り続けた内的衝動は何かということになる。
 それは、やはり、自分の魂の問題だということになる。
 20歳の頃より、10年に一度ずつくらいドロップアウトを繰り返してきて、得たものを、その都度、放棄してしまうようなことをしてきて、放棄することで得ようとしたものは、いったい何なのかということになると、魂の問題とした言いようがない。
 それは簡単に言葉にはできない。だからこそ、作り続けるということになる。けれども一つ言えることは、自らの魂を救うための表現は、他の人の魂を救う可能性があるし、自らの虚栄のための表現は、他の人の虚栄を満たす類のものになりかねないし、自らの暇つぶしのために行なっていることは、他の人の暇つぶし程度にしかならないということだろう。