名嘉睦稔さんとの出会い

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陸の森(作/名嘉睦稔

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海の森(作/名嘉睦稔

名嘉睦稔 大展覧会 
    第一部/陸の森 7月12日(土)〜8月17日(日)
    第二部/海の森 8月23日(土)〜9月28日(日)
    9:00〜17:30 (入館は閉館の30分前まで)
会 場:明治神宮文化館 宝物展示室
詳細→http://www.bokunen.com/meijijingu/

 以前に、名嘉睦稔さんの作品について書いた記事→http://kazetabi.lekumo.biz/blog/2008/05/post-9c2a.html

 

 沖縄で名嘉睦稔さんと会い、濃密な時間を過ごす。
 直接会うのは初めてだが、会った瞬間、既にどこかで会っているような気がした。
 こういう出会いというのは、出会うための何かが、既に充分に自分の中に準備されているということだ。
 そう思いながら、 睦稔さんと話しをしていると、睦稔さんの制作行為じたいも、そういうものだということがとてもよくわかった。
 つまり、眼で見て確認して、それをなぞるように「絵」を作っていくのではなく、「絵」は作る前にすでに存在していて、その「絵」が自分という触媒を通して外に現出する。それを現出させる力は、あえて言葉にするなら、呼応力だ。
 私も、「風の旅人」を制作する際、同じような感覚のなかにある。
 作ろうと思って作ったことは一度もない。作るというよりも、作らされている。もしくは、必然のなかで生まれている。降りてくるという感じもする。
 計画を立てて企画書をつくり、その企画書という設計図に従って細部を作り込むということはしない。また、細部の寄せ集めが全体という感覚もない。細部は全体を包含している。だから、「風の旅人」一冊の全体がわからなくても、読者が、どこでもいいから自分と響き合う細部と出会っていただければ、その人は、全体と出会っていることになると私は思っている。どの細部と響き合うかは、それぞれの人が感知する波長の違いにすぎない。波長は違うけれど、どの波長も同じところから出ている。
 私が作る企画書はすごく曖昧で、いつも表3(最後のページ)に書く曖昧な文章と、最初のページにある変な詩みたいなものが、企画書だ(いつも必ずそうだとは限らないけれど)。それと、「理性」ではなく「身体リズム」(身体呼応性と言ってもいい)に添って選び終えている写真を、手紙とともに執筆者に送る。
 巻頭の詩みたいな言葉や表3の言葉は、雑誌ができる最後に付け加えられるものではなく、最初に存在している。後に多少のアレンジはするけれど、一冊の始まりは、この曖昧な所から始まっている。
 「曖昧」だけど、呼応するものは呼応する。その呼応は、理性ではなく、身体の深いところに生じる波のようなものだ。最初は小さな漣のような波が寄り集まってくることで次第に大きな波になっていく。
 「風の旅人」は、そのように生まれている。
 おそらく、絵でも写真でも文章でも、理屈ではなく身体リズム(身体呼応)のようなものにしたがって、創作されていくだろう。その部分では、変わらない。そして、一般的に雑誌というものは、それらの創作物を整理箱に入れる。私は、その整理箱的(カタログ的)な分別に対して、どうしても違和感がある。
 絵とか写真とか文章の創作者は、身体リズムにそって世界そのものと呼応する何かを作品にしていく。そうした創造行為は、単なる自己表現(自己主張)ではない。「世界に対する信頼感」、すなわち世界と自分とのつながりを取り戻そうとする烈しい情動が、その根底にあるような気がする。
 「風の旅人」の場合も、「世界に対する信頼感」を取り戻そうとする情動があるのだけれど、実はそれだけではない。
 「風の旅人」が、絵とか写真とか文章と違うのは、世界そのものとの呼応によって出来上がっていくのではなく、「写真」や「文章」や「絵」などの人為的行為との呼応(出会い)によって、それらが波のように整えられて一つの形になっていくことだ。
 すなわち、私の根底には、「人為的行為」への信頼を取り戻したいという思いがあるのかもしれない。「風の旅人」のなかの写真も文章も絵も人為的行為であり、それら人為的行為への信頼を取り戻すこと。そのことじたいが、この複雑怪奇な世界のなかで、世界とつながっていくための鍵を手に入れること。その鍵によって、世界と自分のつながりを取り戻す。取り戻すために行動し考えるのは、一人一人だ。ただ、そのように世界と深く関わってつながっていくのだという気持ちを強く持つためには、人為的行為への信頼がまず無ければならない。まずは、その鍵を手に入れる必要がある。
 私の制作衝動があるとすれば、たぶん、そういうことだと思う。
 だから私は、人間が悲惨な状況に置かれているからといって、人為的行為への希望を喪失させる方向に安易に導く「絵」や「文章」は好まない。極限の状態に置かれていても、たとえ僅かでも希望が垣間見える方を選ぶ。どん詰まりの底力のようなものに希望を感じるし、その力こそが尊いと思う。

 「問題提起」することは誰でもできるが、深刻な暗闇状態のなかで、前方に僅かな光を見出したり、おそるおそる道になりそうなところを踏み固めたりすることは、自己保身や打算を超えた、祈りに近い思いが必要になるのではないか。
 楽観主義だからそう言うのではなく、どんなに些細でも、「人為的行為への信頼」という鍵を手にすることをせずに世界への扉は開かれないと私は思うのだ。表現というものは、究極、「人為的行為への信頼」という鍵を与えてくれるものであって欲しい。
 睦稔さんの話から脱線してしまったが、睦稔さんと会って濃密な話しをすることによって、「自分はそういうことを思っていたのだな」と明確になった。
 つまり、自分の考えを明確に意識できたところから物事が始まるのではなく、睦稔さんの絵画制作のように、既に自分と世界との間に存在するものがあって、それを制作行為や思考過程を通じて確認していくにすぎないということだ。
 ならば、自分と世界との間にはいったい何があるのか。
 それは自分の頭の中だけで考えてもわからない。一つ言えることは、自分と世界との間に濃密にあるものを確認していくためには、現実生活のなかの行動を通じて、具体的に出会っていくのが一番だということだ。出会うことを怠ると、既に在るものに気づかず、その感覚がどんどんと希薄になってしまい、実際に出会っているのに出会っていることにすら気づかないということになっていくだろう。
 出会えば出会うほど、既にあるものは濃密に明確になっていく。その濃密さと明確さが、一種の場の力となって、出会いを呼び寄せる。つまり、出会いたいと真剣に思えるほど高まった念は、必ず、出会いにつながる。本気で出会いたい人には、必ず出会える。具体的に誰それということでなくても、こういう人に出会いたいと本気に念じていれば、その本気さが自分のなかに場をつくりだしていくから、いつか必ずそういう出会いが訪れるだろう。
 そして、そこまで自分のなかに準備されている出会いの時、現実としては初めて出会っているのだけど、どこかで出会っているという感覚になるのは当然のことだろう。

 世の中には本当にいろいろな人がいるけれど、一人一人が行っていることや属しているものの種類の違いは大した違いではなく、出会いに影響するのは、本気度の違いのような気がする。

 本気度のバロメーターに応じて、出会いが決まってくるのかもしれない。

 本気になることを阻害する要因があまりにも多すぎるこの現実のなかで、それでも本気になるために、それなりの準備が自分のなかに必要なのかもしれない。
 本気というのは、どこかで信心に通じている。