わかることとは

 親子の間、恋人同士、上司と部下、作家と評論家等々、相手のことを、わかるとかわからないとか、わかって欲しいとか、わかってもらえていないなど、他者を理解したりされたりすることに関するジレンマは、人間ならではの心の動きのような気がする。

「わたしのこと、わかっていない!」と恋人に辛く当たれば、相手は、うんざりする気持ちを抑えながらも、なだめるように「わかっているよ」と答える。

 そもそも何をわかって欲しいのか。恋人同士なら、多くの場合、自分の悩みをわかって欲しいということなのだろうか。作家と評論家なら、自分の実力や才能を認めて評価して欲しいということなのか。

 私は、「わかってもらえない」ことよりも、「わかったつもり」になられることの方が辛いので、あまり「わかって欲しい」と思わなくなっている。どちらかといえば、「放っておいてくれ」という感じだ。

 そもそも、「わかる」とか「わからない」ということに対する定義が、人それぞれなのではないかと思う。

 私の場合、「知っている」=「わかっている」ということではないと感じている。対象の全てを知ることなど、そもそも不可能だから、「知っている」=「わかっている」ならば、全てにおいて、「わかっていない」と言うしかない。「わかっていない」けれど、「わかろうとしている」という言い方でOKという局面も多くあるだろう。

 恋人同士で、「私のこと、何もわかっていない」と一方が言い、相手が、「いや、わかっているよ」と冷たく答えると、「全然、わかっていないじゃない」と溝が深くなる可能性が高いけれど、「きみのことわかっていないところも多いけれど、わかるように努力するよ」と答えると、相手は、「自分のことをわかってもらえている」という安心を得るということがあるだろう。

 つまり、「わかっているよ」と完了形で言われると、「簡単に理解できてしまう程度の自分」と言われているに等しく、自分という存在の発展的広がりを否定されているような気分になる。

 「わからない部分も多いけれど、わかるように努力するよ」と言われると、発展的広がりのある自分のことを尊重してもらえているような気分になって安心する。つまり、わかってもらえるというのは、現時点の自分をあれこれ分析して知っているつもりになられることではなく、自分の可能性の幅を尊重してもらえるということなのではないだろうか。

 すると、相手のことを「わかる」と断言できるのは、「相手のいろいろなことを知っている」ということではなく、相手の可能性を知り、相手の力を最大限に引き出したり、全体のなかで相手の力が最大に生きるポジションを見出すこと、つまり相手を生かせる確信を持ててはじめて、「わかる」と言えるのではないかと思う。

 親と子、上司と部下、恋人同士、編集者と作家などにおいて、そのように相手をわかる関係をつくり出すことは、まったく不可能ではない。世界と人間の間においても、絶望的に不可能なことではないと思う。上に述べたような意味で「わかる」ことは、愛に通じることなのではないかと思う。

 現代は、一億総評論家時代と言われるように、プロかアマに関係なく、様々な評論や分析が飛び交っている。インターネット技術が進み、ブログなどの表現手段を手にした評論家がこれだけ増えると、もはや、評論家という肩書きなど必要はない。それでも評論家という肩書きの欲しい人は、知っていることの多さとか、著書などの実績とか、メディアへの登場回数とか出身大学とか所属研究機関などの権威付けによって、線引きをはかろうとする。

 自分の分析がより正しいことを、知識・情報の多さや権威的実績で裏付けようとする。

 その種の論述のつまらなさを、次第に多くの人が感じるようになってきた。

 なぜつまらないのかというと、それらの論述からは可能性が閉め出されているからだ。

対象を活き活きと生かすどころか、バラバラに分解して殺している。

 私が共感する若い写真家が、高名な評論家に、「森山大道の二人目はいらない」とか、「スタイルが古いね」とか、「どのくらいの期間、撮ったの? 一ヶ月か。なるほど一ヶ月というレベルの写真だね」とか言われたらしいが、こういう言い方って、何かを言っているようで、何も言えていないと私は思う。

 そして彼らは、奇をてらった表現物に目をつけて評価付けを行い、「先見者の作品は、最初は何だかわからないと、あまり評価されないものだ」などと、うそぶいたりする。

 彼らは、「評価」のために作品があると思ってしまっていて、その「評価」を下す力と資格が、自分にあると勘違いをしている。

 私も雑誌編集をしているので、「写真を見て欲しい」と言われることがよくある。しかし、私は、それらの写真がいいものか悪いものか客観的に評価したくないので、断っている。

 私が写真を見て判断するのは、あくまでも「風の旅人」と呼応するものがあるかどうかということ。「風の旅人」のなかで、その写真が生命を得ることができるかどうかということと、その生命によって、「風の旅人」じたいの生命力が増すかどうかだ。

 だから、「写真を見て欲しい人」や「ただ写真を発表したい人」ではなく、「自分の作品が、風の旅人という場のなかで生きるかどうか真剣に考えている人」と出会いたい。風の旅人をロクに読んだこともない人の売り込みを受けて、その人と抽象的な写真論を議論しても仕方ないと思うのだ。

 自分のなかで(もしくは自分が作る場において)、ある作品が生きてくると判断する時、私は、その作品をわかると判断する。それは呼応するということだ。これは人との出会いにおいてもそうだろう。その人との出会いによって、自分のなかの何かが活性化する時、私は、その人をわかっている。

 そのうえで、その対象の良さが自分のなかで最大限に生きてくるように努める。編集でいえば、そのような願いをもって、写真を選択し、展開を組み、レイアウトの指示を行う。 私がいいと思って組んだ写真でも、結果として写真の良さを損なう編集になってしまうようであれば、私は、その写真をわかっていなかったということになる。人間関係においてもそうだ。結果的に相手の良さを損なう関係になってしまう場合、相手をわかっていなかったということなのだろう。

 そういう失敗は当然ある。わかっているつもりで、実際は、まったくわかっていなかった。そういうことが発生する時は、自分で強く意識していなくても、何らかの邪な気持ちが働いていることが多い。その修正を積み重ねることなく、「わかる」ことの精度を高めていくことは難しい。

 そして、「わかる」ことの精度が高まってくれば、「わかる必要もない」ことも明確になってくる。

 自分のなかの何ものも活性化しないものは、わからないままでいいのだ。


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