表現について

 表現活動が何のためにあるのかについて、人によっていろいろ考えがあるだろうが、私は、短期的であれ長期的であれ、その表現に触れるものの行動(心)に影響を与えていくことに存在意義があるのではないかと思っている。

 そういう大義名分を掲げて表現活動をするべきだという意味ではなく、それに触れるものの行動(心)に何らかの影響を与えた時点で、そのものは、「表現物」として生命を持ったと言えるのではないかと思うのだ。

 つまり、Aという人の写真は、Bという人にとって「表現」であっても、Cという人にとっては、ただの写真にすぎないということだ。

 言葉が関係性の賜であるように、表現もまた、関係性のなかで成立するのだと思う。

 今日の表現世界でややこしいのは、自分の行動(心)に何も影響がないのに、表現世界の体系のなかで良し悪し(新しい古い)を評価されて語られたり、著名評論家が誉めるだけで、評価の高い表現物に祭りあげられることだ。

 感受性が無いと思われるのを恐れて、物わかりの良い知識人を装って、本当は何も感じていないのに感じているふりをする輩が多いことも今日的な特徴であり、それによって、今日の表現世界は、益々ややこしくなる。

 といって、主観的な言葉でモノゴトの良悪を説いてりランキング付けするものが、その混迷を救うわけでもないだろう。

 ランクや、ランク付けしている人の権威を頼りに表現物との出会いを期待するのではなく、ランク付けしている人の行動(心)の賜であるその人の「表現」によって、それが信じるに値するかどうか判断した方がよいと思う。

 本当に素晴らしいものであれば、その作品と出会うことで自分の裡に変化が起き、自分の表現(生き方や行動)にも影響が生じる。作品の良し悪しや、その人が本当にその作品と出会った(感じた)かどうかは、最終的に、その作品と出会った人からアウトプットされるものによって判断するしかないのではないか。

 モノゴトの良さを感じるというのは、自分のなかで何かしらの変化が生じている状態を指すのだと思う。何も変化が生じていないのに、良い悪いを論じるというのは、けっきょく世間的な評価とか他の権威ある人の価値基軸をそのまま借りているということになる。

 私は、写真を多く掲載する雑誌を作っているので、写真を見て欲しいという連絡をよく受ける。

 しかし、私は写真評論家ではないので、写真作品を評価付けすることが仕事ではないし、そういうことに興味もない。

 私が出来ることは、自分が感じる作品の生命力を、自分の感受性と思考というフィルターを通して、より明確に引き出すことだ。それが編集の仕事だと思う。私は、作品を整理したり評価付けしたり解説したりするのではなく、作品の生命力を引き出すことを重視している。

 だから自分の行動(心)に何の影響も与えてくれない写真は、取り上げたくても取り上げることができない。それは、私を動かすだけの力がないということだろう。

 だから、私としては「写真を見て欲しい」と言われても心があまり動かない。そういう人は、風の旅人をろくに見ていない人が多い。

 もし本気で写真を売り込むなら、「自分の撮ったものは、きっと風の旅人に呼応する筈です。なぜなら、自分も、風の旅人に呼応するところが大ですから」くらいのことは言って欲しい。

 自分にとって良い作品とは、自分を動かす力があるもの。私の場合、編集という具体的な仕事をしているから、その動きが、ダイレクトに編集内容に反映される。

 自分が動かされていない場合は、それなりの理屈で説明することはできても、自分なりの形でアウトプットすることはできない。


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