「表現」というと、絵とか写真とか音楽とか小説とかを連想するけれど、決してそういうことではないのだろうと思う。それらの制作物を「表現」と捉え、制作物をつくる仕事に関わることをクリエイティブだと考え、そうした仕事に就きたいと考える人がいる。
そうした仕事に就きさえすれば、「表現」ができると錯覚しているのだ。
でも私は、それは違うのではないかと思う。
昨日も書いたように、人の行動(心)に何らかの影響を与えているものを表現と解釈すると、別に絵とか写真とかでなくても、その人の笑顔とか振る舞いだって「表現」になっていることがある。
子供の無邪気な遊びも、朝、散歩する時に目にする樹木や花や鳥も、ある特定の人にとっては「表現」として感じられる。
一冊の分厚い写真集を一時間見るよりも、散歩したり、心豊かな人と話した方が、より豊かな「表現」に出会えるということがあるのだ。
「表現」することを目的にして表現されたものは、笑顔をつくろうとして笑っている顔みたいに、腹の中が見えない「わからなさ」が漂う。つまり思わせぶりなのだ。
それは、自分の中から湧きあがるものを外に表出しているものではないからだろう。
格好ばかりの表現志向の前に、自分の中に湧きあがる衝動があるかどうかの方が、より大事だと思う。
思わせぶりなものと出会う時、それはそれで自分の行動(心)に影響を受ける。でもその影響は、自分を閉じる方向に向かわせ、少し不安定にする。気持ちが悪いのだ。その気持ちの悪さが、「現代の空気を表現している」と評論家に褒め称えられたりするから、表現業界に付き合っているとややこしいことになる。
「現代の空気」などという単純な言葉で括られるように誰にでも当てはまる普遍的な空気など無いだろう。
「現代の空気」なのではなく、「思わせぶり」な環境のなかで「思わせぶり」を自分のコミュニケーションの方法にしている人が共有する、お互いの腹のなかが見えない「わからなさ」や「不安」を指して、その中にいる人(業界人)が、「現代の空気」と言っているだけにすぎないのではないか。
業界人の周辺に、表現のための表現を志向する人が群れて、そのなかだけで通用する価値のヒエラルキーによって、「表現」の優劣がつけられる。
しかし、「表現のための表現」の外にいる人たちにとっては、そんな優劣はどうでも良いことなのだ。
「表現」は出会いであり、自分の行動(心)を正のスパイラル状に動かしてくれる表現との出会いこそが素晴らしい。それは、写真や絵や文章だけでなく、旅先に立ち寄った小さなお店で出会った心温かいお婆さんとの出会いも同じだ。
写真を撮っている人はたくさんいるが、大きく分けて二種類あるように感じている。自分の行動(心)を正のスパイラル状に動かすものとの出会いを追い求めている人と、表現のための表現を志している人だ。前者は、そこに写っているものが、山であれ森であれ人であれ、その人の行動(心)が大きく動いた瞬間を撮ったものであり、その波動が、それを見る私にもググッと伝わってくる。
そして、その万華鏡のような「出会い」こそが、「生そのもの」という気がしてくる。
私が惹かれる写真はそういうものであり、編集によってそういう写真の生命を引き出すことで、世界にはこんなにも豊かな出会いが満ち溢れていることを示すことができるのではないかと思っている。
それに比べて、後者の写真は、そこに写っているものが、山であり森であれ人物であれどんな風景であれ、その人の「気分」や「認識」を確認するだけで終わってしまっているように感じるものが多い。もしくは、「自然とはそういうもの」と既に頭にインプットされている映像を確認するだけで終わってしまっているように感じるものが多い。
「表現のための表現」に共通していることは、どれも自分にとっての確認作業ということだ。それは、その人にとっての「メモ」みたいなものだ。「メモ」の作り方の上手い下手や、面白い面白くないというものもあることはあるが、確認作業というのは、けっきょく、自分の狭い了見のなかで対象を整理しているだけのように思う。
出会いというのは、自分の狭い了見を突き動かして、それを広げる何かしらの衝動があるものだと思うが、そういう意味で、後者の写真には、その衝動が感じられない。つまり、それを見る私自身が、その写真と出会えないし、その撮影者が被写体と出会えているかどうかもわからない(感じられない)。
評論家は、よく「時代の気分」というような言葉を使う。
「出会いの無さ」を時代の気分とみなし、「出会いの無い写真」などを、時代の気分がよく現れた写真だと評価する手法が、業界ではまかりとおっている。
でも騙されてはいけない。「時代の気分」なのではなく、それは、その人の「気分」にすぎないということだ。
「気分」は伝播するけれど、だからといって、それが普遍なのではない。人の「気分」に伝播されやすい人がいるだけのことであり、そうでない人も多くいる。
どちらの側にいるかで、「時代」の見え方や感じ方は変わってくる。
時代は、「気分」という一つの価値基軸ではかるものではなく、諸価値の総合と向き合い出会いながら変容していく自らの行動(心)を通して、後付けで知るものにすぎないだろう。
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