世の中の価値観って?

 昨夜会った人に、「風の旅人」のように文字がいっぱいの雑誌って、売れるんですか?と言われた。「風の旅人」は、150ページのうち、写真が90ページほどで、通常の雑誌よりも写真が多い筈なのだが、文字が多い雑誌と受け止める人もいるようだ。

 また、文字が多いと売れないとも思われているらしい。

 それ以外にも、「風の旅人」に掲載されるような写真は、濃密すぎて一般の人に敬遠されるのではないか?と、わざわざ言ってくれる人もいる。文章の内容が難しいとか、テーマが重いとか、あちこちでさんざんな言われ方をする。

 誉められる場合も、豪華だとか、贅沢だという言い方が多く、誉める場合もそうでない場合も、その中身とじっくりと付き合った上でのことではなく、”表面的な印象”に基づくことが多い。

 そうなのだ。何であれ、対象ときっちりと向き合えば、全てのものが備えている存在の固有性に肉薄されて、簡単な言葉で評価付けなどできやしない。簡単に評論できてしまうのは、対象の存在の固有性に触れずに、「豪華」とか、「難しそう」など一般的な尺度に落としこめる領域にとどまっているからだろう。

 「人の意見は大切だ」とよく言われるけれど、意見を言うその人が、必ずしも相手とがっぷり四つに組んでいてくれるとはかぎらない。

 「風の旅人」にしても、たとえ一冊でもすべてをきちんと読んでいる人は、おそらく簡単に評論できない筈であって、いろいろな印象感想を言う人は、「ちょっと見た」という程度のことが多い。

 また、人に意見をする時に、人とは違う「固有の自分」の考えを述べる人は少ない。「固有の自分」は封印して、一般論で述べることの方が多い。

 「私は、文字の多い雑誌は、あまり見たくない。その理由は・・・」とか、「私は、今日の社会において、文字の多い雑誌というのは、むしろ弊害だと思う。その理由は・・・・」という言い方をする人は、あまりいない。

 自分のことはさておき、「こういうのって、今の世の中ではどうなの?・・・」という感じなのだ。

 なぜなんだろう。

 ならば、その逆に、「こういうのって、今の世の中に合っているね」という言い方をした場合、その基準はいったいどこに置いているのだろう。

 私が思うに、「今の世の中に合っているね」などという言い方は、既に世の中にそういう傾向のものが飽和とまではいかないけれど、かなりの勢いで溢れてきていて、そうしたことを日頃目にして既にその感覚に馴染んでしまっているから、「今の時代に合っているね」などと簡単に言えるのではないだろうか。

 どうであれ、既に世に生じている価値観に自分がかなり影響を受けているということだ。

 世の価値観が変われば、それに合わせて自分の価値観や考え方も変わるということだろう。

 それはそれで構わないのだけど、世の中の表面的な価値観がいくら変わろうとも、内実において変わらない部分もあるのだと私は思っている。

 表面が激しい速度で変わり続けているから、その変わらない部分は、見えにくくなっている。 

 でも、人間が人間に対して、”信頼できるなあ”と感じる感じ方とか、人や場所において気疲れせずにくつろげる感じとか、元気を得る感じとか、その逆に、げんなりしたり、いやなものを見てしまったなあと感じるようなところは、根本的なところではそんなに変わらないのではないかと私は思っている。

 そのあたりのところにしっかりと軸足を置いていると、世の中の価値観に合わせなくても、自分なりのスタンスで生きていくことはできるし、そのスタンスに応じた人や物とのつながりを得ることもできる。

 「今の世の中」に合っているとか、合っていないとか、他人に評価付けされたり、カテゴリーのなかでどのように整理されるかが問題なのではない。合っていようがいまいが、どういう形であれ「今の世の中」に自分が生きていることは間違いないわけで、今の世の中に生きるために規格・標準に従うことが宿命とは限らず、それなりの幅が可能性としてあり得るのだということを自分自身の活動を通じて示せればそれでいいのではないか。

 でも、そういう幅が示されたとしても、「運がいいから」とか、「バックに何かがついているからではないか」とか、幅を幅として認めずに例外マークで括りたがるのも、規格・標準に慣れすぎて、それ以外の自律的な存在の仕方に合点がいかない現代人の思考の癖なのかもしれない。