第1493回 世界共通の「現代」を前向きに生き抜く力

 私は40歳になるまで写真界とは無関係だったのに、2003年、突然、風の旅人というグラフィック雑誌の制作を始め、2015年10月まで50冊を制作した。
 創刊当時の執筆者は
白川静さん、川田順造さん、河合雅雄さん、日高敏隆さん、養老孟司松井孝典さんといった歴史、人文、生命、生物、宇宙、科学といった文理の違いを問わない世界の探求者だったので、彼らの深遠なる言葉と均衡を保てる写真かどうかだけが重要だったから、写真界の基礎知識など必要なかった。
 そもそも、どんな表現や思想評論や学問でも同じだが、私たちが生きている「世界」と向き合う眼差しを鍛え、物事と向き合う意識を深めるものでなければ表現物としての存在意義は小さい。なぜなら、そうしたことが、生きる力を高めることにつながっているからだ。
 近年、誰でも簡単にスマホで写真が撮れるようになったり、カメラ雑誌の廃刊が続いたりしたので、写真表現界が元気がないなどと言う人もいるが、写真表現に元気があるかどうかは、写真表現そのものに人々の眼差しや意識に強く働きかける力が残っているかどうかが肝要だ。好きか嫌いか、時流にそっているかどうか、海外で評価されているかどうかといった表面的な分別によって消費されるばかりで、「個性的」などと言われる場合も、実際は他の誰かと似たようなことを目先を変えてやっているだけのものが多い。
 しかし、絵画でも音楽でも何でもそうだが、表現活動というのは、数年単位で評価しても意味がない。
 後世に残るようなものは一つの世紀においても、それほどたくさんではない。そして、どの時代においても、沈滞する時がある。真の意味での新しさは、そうした沈滞の中から現れてくる。
 私は、写真界とは無関係だったがゆえに、風の旅人を制作していくうえでの写真選択の尺度は、上述したように、私が写真以上に血肉としていた言語表現者の言葉と均衡を保てる強度や深さを備えている写真かどうかだけだった。
 そのようにして、日本だけでなく世界中から風の旅人に掲載するための写真を探し求めた。
 例えば第13号の「生命系と人間」(2005年4月発行)では、巻頭に、白川静さんの渾身の直筆原稿が展開し、それに続いて、セバスチャン・サルガドの新プロジェクトであるGENESISのシリーズを特集した。サルガドの GENESISをこれほどの規模で紹介したのは世界でも初めてで、世界初公開の写真も多かった。このコラボレーションについては、小説家の梨木香歩さんが、毎日新聞の書評で、かなり熱い思いをこめて絶賛してくれた。
 実は、この風の旅人の第13号の中に、今、記事を書こうとしている中藤毅彦が撮った写真を初めて掲載した。ニューヨークを撮った写真だった。今から20年も前だ。この号には、水中写真家の中村征夫さんが、30年かけてヘドロだらけの東京湾を撮った写真の初公開などもあり、他には水越武さんのバイカル湖野町和嘉さんのアンデスの写真などを掲載していた。それぞれの領域で、長年、写真表現を継続していた人たちばかりの写真だから、「生命系と人間」というテーマと響き合うのは当然だが、そこに、中藤毅彦のニューヨークの写真を私は組み込んだ。都市もまた生命系で、これは大事なことであり、世界で最も著名な写真家であるサルガドが撮ったガラパゴス諸島の野生動物などと、まだ駆け出しの写真家だった中藤毅彦が撮ったニューヨークの人物に共通するものを感じたからだ。
 風の旅人は、写真雑誌ではなく、あくまでも写真と言葉の交響曲を目指していた。
 そうした編集方針ゆえに、掲載される写真は、自然、生命、生物、人間のドキュメントになりやすい必然性があり、いわゆるストリートフォトというジャンルのものを、私は掲載しなかった。
 簡単に言うと、通りすがりにSHOOT(狙い撃つ)しただけのものは、被写体との関係性が弱い。そういう写真を、カッコいいとかセンスあると評価するのは自由だ。しかし、その種の写真の大半は、撮影者の限られた「自己」の価値観で切り取られているだけで、被写体は、そうした撮影者の「自己表現」=「自己主張」の素材でしかない。私は、被写体に対する敬意や畏れが微塵も感じられない写真には興味がなかった。撮影者が被写体を消費しているだけの写真は、世の中でも、けっきょく消費されるだけだからだ。
 中藤毅彦の場合、写真界においてはストリートフォト系の写真家と識別されているようだが、私にはそういう認識はなく、それゆえ、彼の写真を、風の旅人で何度か掲載した。
 10年以上前になるが、大阪のビジュアルアーツで、百々俊二さんと、中藤毅彦と、私で鼎談をした時だったと思うが、その話のなかで、私が、中藤毅彦の写真は、ただのストリート写真ではないという話をした記憶がある。
 その時点で、彼は、東京だけでなく世界の幾つかの都市を舞台にした写真を撮っていて、それらの写真が、東京とかパリといった地域性を超えて、世界共通の現代という時代を前向きに生きる人間の姿を感じさせるものであるという話を私はした。
 表現を試みている者なら誰でも何かしら現代性ということを意識して表現しようとする。しかし、多くの場合、それは現代というカタログの中の一つの断片でしかない。今風のものを追いかけても、すぐに風化するだけのこと。
 中藤毅彦の写真には、世界各国の地域性の違いを超えて共通する何ものかが漂っており、それはまさに、「現代の世界」の写真だった。
 そのうえで重要なことは、その「現代の世界」で生きる人たちの魂の陰影が伝わってくること。通りすがりのSHOOT(狙い撃つ)で自己表現の素材を探しているだけの人は、自分の魂で被写体と向き合っていないから、被写体の魂も感じ取れない。だから写真にも、それが写らない。
 他の言い方をするならば、街中で写真を撮られた人たちが、自分の写っている写真を見せられた時に、どう感じるかが重要であり、一番素晴らしいのは、自分でも気がついていなかった自分の魂を、その写真の中に発見することだろう。ファッションモデルが、腕の良いカメラマンに自分をキレイに撮ってもらえて嬉しいと言うが、その程度のことならば、写真は、そのモデルのナルシズムに貢献するだけのこと。
 そうではなく、自分が撮られた写真を、気分が落ち込んだ時とか人生の勝負時に見て自分を鼓舞するとか、逆に自分が卑屈になったり傲慢になっている時に、その写真を見て、自分を省みることができれば最高だ。
 都市であろうが田舎であろうが、人間がそれを失ってしまった瞬間、人間が頽廃していくものがある。その大切なものは、自尊心であり矜恃だ。自尊心や矜恃という言葉を「プライド」と同じ意味で捉えている人がいるが、大きく違うのは、一般的な意味で使う「プライド」は、他人との比較や他人の評価が大きく関係している。
 だから、「プライド」の強い人は、ありのままの自分を見せることは難しく、飾ったり、ごまかしたり、隠したりすることが増える。
 それに対して、自尊心や矜恃というのは、他人は関係なく、自分で自分のことをどう受け止めるかが重要になる。
 他人がどう思おうが自分は自分のやるべきことをやればいいという境地が自尊心だ。
 しかし、そうした自尊心があっても、経験が乏しければ、周りの状況によって迷ったり悩んだりするが、それでも、自尊心を大事にして経験と実績を積み重ねていき、自分自身の中にしっかりと蓄えられたものを判断の根拠とするようになると、周りがどうあろうが泰然として軸がブレない。その心理状態が、矜恃だ。
 矜恃は自尊心の発展形だが、いずれにしろ、この自尊心や矜恃を失ってしまうと、人間は頽廃に向かう。
 自尊心や矜恃を持っていないのにプライドだけは強い人が多いところは、たとえば企業でも政治を含む各種団体でも、その場は閉鎖的で硬直し、疑心暗鬼が渦巻いており、心を開いた対話は成立しにくい。これが国全体となってくると、深刻な問題になる。
 それに対して自尊心や矜恃というのは、世間の尺度で自分を計るのではなく、自分の心が成長し、自分という器が大きくなっていくことを重要とみなすから、自分と関係する他者や物事に対する誠意や敬意も大事なエンジンとなるし、偽りの自分を示すことにもブレーキがかかる。
 表現に何らかの形で関わっている人たちは、このことを真摯に考える必要があるが、それどころか、自らが、自尊心や矜恃が弱く、プライドばかり強い自称表現者も多い。
 都市の問題というのは、情報分別が多すぎるために自尊心を持ちづらく、気を迷わすものが多いから同じことを地道に続けにくいので矜恃を育む経験の積み重ねが難しい。そのため、プライド=虚栄によって、自分を守るしかなくなる。しかし、プライドというのは卑屈と裏表だ。
 秘境辺境とされる地域の過酷な環境で生きている人間にとっても、この自尊心や矜恃が重要になる。というか、むしろ、そうした地域の方が、生存に直接関わる問題なので、表面的なプライドよりも、自尊心や矜恃を持って生きている人が多い。
 表現や学問に関わろうとしている人のなかで、プライドが高くて自尊心や矜恃の重要さがわかっていない人は、過酷な環境で生きている人たちのことを伝える時、その過酷な環境を伝えることばかりに意識を置いたり、都市世界においても、「文明に蝕まれた人間」を強調するために、殺伐とした都市の状況をコンセプトにしてしまったり、そこで生きている人間を卑しく惨めな存在として扱ってしまうことがある。そして、そうした自己本意の目線での啓蒙活動が正義だと勘違いしている。
 しかし、そうした啓蒙情報というのは、その情報の受け手を「わかったつもり」にするだけであり、肝心なことが伝わらない。
 肝心なことというのは、どんなに過酷で難しい状況でも、その状況を変えていく力となるのは、その場かぎりの共感や同情や慰めではなく、人間の自尊心や矜恃を取り戻すことだ。
 中藤毅彦の都市写真が、他の一般のスナップショットと異なる特徴は、彼が撮った人物たちの自尊心と矜恃が滲み出ていることである。
 中藤のように都市の中を撮った写真において、人間の魂と言うべき自尊心や矜恃が明瞭に写っているものと出会える機会は、めったにない。
 鬼海弘雄さんの「PERSONA」というシリーズの人物たちからは、自尊心と矜恃がよく伝わってくるが、このシリーズは、浅草で鬼海さんが、ひたすら待ち続けて出会えた人物だけが対象になっている。
 中藤毅彦の写真の特有なところは、人物だけでなく荒漠とした都市風景もまた、秘境辺境の荒地のように、人間が卑小なプライドに執着することの無意味さを悟らせる舞台にさえ見えることだ。
 中藤毅彦の都市写真において、人間の自尊心や矜恃が滲み出ているのは、彼が、卑屈と裏表のプライドよりも、そのことを重視していて、そのことに敏感だからだろう。
 人の心というのは、外界のなかで自分の中にあるものに反応する。心が後ろ向きになれば街中でもそういうものに反応するし、心が虚栄を求めていると、街中でも虚栄を刺激するものに反応する。それは写真家に限らず、誰でもそうだ。
 世界の見え方は、その人の心の持ちようとつながっているのだ。
 そして都市というのは、確かに自然界に比べれば虚栄の濁流が激しく渦巻いている。しかし、そうした渦に簡単に巻き込まれてしまう人もいれば、そうでない人もいる。人類の未来の命運を考える時に、どちらが大事なことかは改めて考えるまでもない。

 その中藤毅彦は、最近、「DOWN ON THE STREET」という写真集を自費出版で作り上げた。この自費出版は、プライド=虚栄ではなく、自尊心と矜恃の賜物だ。もはや、この時代、写真家は、出版社などあてにしてられない。だからといって卑屈になって恨み言を述べていても、新しい時代の扉は開かない。そんな周りのことはどうでもよく、自分でやるべきだと思うことを実現するために、自分なりに精一杯の努力をするだけのこと。 
 おそらく、そうした思いで作り上げたこの写真集には、彼が世界中の都市を歩き回って撮影し続けた人や街が写っている。その都市は、シカゴ、ニューヨーク、ハバナ、パリ、ベルリン、バルセロナプラハホーチミン、上海、香港、ソウル、東京などだが、彼は、時間と場所の境界を無化してしまい、全世界的な「都市」の時空を表現するために本を編集構成している。出版社の編集者やデザイナーには、こうした発想は持てない。なぜなら、現地を自分の足で歩いて肌で感じた人間だけが、その感応に基づいて、複雑な石垣を作る石工のようにして「現代世界」をブリコラージュできるのだ。
 これは非常に面白い試みで、10年以上前の鼎談で私が彼の写真について語ったことが、さらに先鋭化されて、濃縮された状態で形になっている。 
私は、その当時から、彼の写真活動の延長上に、こうした「現代世界像」を思い描いていたので、数年前に彼が林忠彦賞を受賞した「STREET RAMBLER」は、中途半端な印象だった。立派な装丁の本で、印刷の白黒の濃淡も素晴らしくて、そのことが受賞理由にも挙げられていたが、そんなことは本質ではない。残念だったのは各都市がカタログのように個別にカテゴライズされてしまっていて、さらに、そこに掲載されていたキューバの写真だけが都市空間とはまた別のものだった。
 どちらかというと、彼の潜在的意識で探し求めている現代世界像を描き出した写真集というより、自分のそれまで取り組みを人に知ってもらいたいという表面意識の反映に見えて、だから、私は、この写真集についての文章はどこにも書かなかった。
 まさにタイトルの RAMBLERのように、とりとめがなかった。
 「友人がこういう写真集を出しました。すごいですよ、おすすめです」という内実の伴わない宣伝を、私はやらない。そんなことを続けていると、イソップ物語の「狼と少年」になってしまうだろう。
 人に勧める時は、本気になれる時だけ。しかし皮肉なことに、私が本当に良いと思った場合は、今回のようにけっこう長く書き込むので、情報の断片だけが欲しい人は読まない。だから、残念ながら多くの人に届く宣伝文にならない。この情報氾濫の時代に、「すごいですよ、おすすめです」という安易な宣伝文句で行動する人が多くいるとすれば、扇動もされやすいということで、その方が問題だと思うが。
 それはともかく、インターネットで世界中がつながる現代に生きる私たちは、世界中のどこに住んでいようが、頭の中は、中藤毅彦の「DOWN ON THE STREET」のように、路上を歩きながらのコスモポリタン状態にある。
 都市のどこを歩いていても、パリの風景も香港の街並みも、様々なファッションビジュアルなどを通して、共通体験をすることになる。
 にもかかわらず、旅行ガイドのような、それらの場所への案内を意図したかのようなカタログは、もはや書籍として世の中に出す意味がなく、インターネット情報で十分だろう。
 本というのは、それ自体が一つの世界であり、一つの場として成立している。
 そうした場を通じて、何を成就していくべきなのか。
 大事なことは、この世界全体で標準化の著しい「現代世界」のなかで、いかに生きていくかだ。
 その生きる力を与えてくれるような表現でなければ、敢えて自ら進んで手にする必要はないだろう。単なる娯楽や、情報説明の類は、 SNSなどを通じて向こうからやってくるのだから。
 話は冒頭に戻るが、風の旅人の誌面の中で、中藤毅彦の写真を掲載していた理由は単純なことで、風の旅人という場が、気の迷いが多くなる現代世界のなかで、人間がいかに真摯に生きられるかが根本的なテーマだったからだ。
 中藤の写真は、私にとってストリート写真というジャンルではなく、現代世界の写真であり、その現代世界を舞台に、自尊心を失わずに生きる人間の姿を捉えたものである。
 このたびの「DOWN ON THE STREET」は、そうした長年の姿勢が結実したものになった。
 長くなったついでに、もう一つ大事なことを書く。
 中藤毅彦は、フィルムカメラに長年親しんできて、自分で暗室作業を当然のことのように行う。しかし、今回の写真集は、この10年、デジタルカメラを使って撮影した写真をメインになっている。そして、それが良い結果になっている。
 フィルム写真を通して被写体との向き合い方や、写真の力を引き立つための鍵を十分に心得るようになり、自分の中で何を撮るべきかが無意識ながら定まっていくと、デジタルカメラを使う場合も、カメラ任せにならず、フィルムカメラを扱っていた時の精神を維持できるのかもしれない。
 そうすると、デジタルカメラの利点は、より多く引き出せる。たとえばアナログのフィルムだと不可能な夜の写真とか、暗い部屋の場合だ。さらに、デジタルカメラの方が、自分の目的を達成するために様々な方法を試し、失敗を繰り返しながら、最善を見つける試行錯誤がしやすい。フィルムの場合、どうしてもコストの問題がつきまとうからだ。(近年の値上がりも著しい)。
 中藤毅彦は、熱烈なフィルム写真愛好家でありながら、保守的な頭でそれにこだわらず、融通無碍の境地で新技術を使いこなしたことも、今回の写真集の質を高めることにつながったように思える。

 

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