第1492回 すべてのものを、神秘的なものも、死も、すべて生のうちに見ること。


「彼岸に目を向けることなく、すべてを、神に関することも、死も、すべてこの地上のこととして考え、すべてをこの地上の生のうちに見ること。

 すべてのものを、神秘的なものも、死も、すべて生のうちに見ること。
 すべてのものを価値に上下のないものとしてこの生のうちに見るとき、そのとき、ひとつひとつのものがそれぞれ意味を持つようになる。」

 ライナー・マリア・リルケ

 先月、京都の龍安寺近くにある指月林に源氏物語の女房語りを聞きに行った時、指月林の中に、志村ふくみさん関係の資料が幾つかあったので、担当の方にお尋ねしたところ、指月林にて志村さんの作品を取り扱っておられ、時々、来られることがあるという。
 今年の9月で100歳になる志村さんの近況をお聞きしたところ、脚の具合がそれほどよくないので、できるだけ外出は控えておられるけれど、明晰さは、以前とまったく変わらないとのこと。
 その志村さんが、80歳を過ぎてから、リルケの魂と深く向き合うために上梓された『晩禱 リルケを読む』を、再読しているのだが、草木染めの糸で着物を織るという日本の伝統的な自然観や世界観に基づいた仕事をされながら、音楽や文学は西欧のものに親しんでいるという志村さんの魂が、なぜリルケの魂と呼応しあうのか、とてもよく伝わってくる。
 私が志村さんを嵯峨野のアトリエでロングインタビューさせていただいたのは、2013年の夏だった。まもなく90歳になるという年齢をまったく感じさせない話ぶりで、その内容の奥行きと論理の明晰さに驚かされた。
 話の内容は、日本文化に基づく繊細で奥深い心が反映されたものであるが、その内容を伝える言語は、曖昧さが少ない非常に論理的な西欧思考を感じさせるものだった。
 私が、志村さんのインタビューを望んだのは、風の旅人の第47号で、「妣の国、根の国」というテーマを設定したからだった。
 一神教を生んだ砂漠と異なり、日本人の死生観を育んだ母なる森や海や大地は、それだけの包容力と柔軟性がある。おしなべて、一つの死が次の生を整えて次々と循環していく。
 様々な表現活動のなかで、志村さんのお仕事である草木染と織物は、特にそうした日本の風土と深く関係している。
 さらに織物というのは、縦糸と横糸が別の色で織り込まれることで、織色という第三の色を表現する。つまり、一本一本の糸の色の個性はそのままで、その組み合わせ方によって世界を再構築していくのだが、縦糸は、織機の上に最初に張らなければならず、一度張った縦糸は、やりなおしがきかない。だから、非常に緻密な計画と計算が必要(エンジニアリング)になり、それに対して横糸を張っていく行為は、どちらかというと、その時々の糸の声を聞きながら最適を判断していく感受性が反映される(ブリコラージュ)。
 織物に限らず、人生の全ての活動において、この縦糸と横糸の関係があるはずだ。
 死も含めて、どんなにあがこうとも変えようのない縦糸があり、その都度の最適を求める判断で織り込んでいく横糸は、日々の現実となる。
 こうして作られていく人生の織物が、その人の生である。
 志村さんは、無意識のうちに、この決定的な縦糸と偶有的な横糸の関係によって世界や人生が生き生きとしたり、その逆になったりすることを心得ておられる。
 私が、ロングインタビューの依頼の手紙をお送りした段階では、志村さんは、「インタビューは、だいたいいつも同じようなことを聞かれるので断っている」ということだった。
 そのため、当時、東京にいた私は、とりあえず会えるかどうかわからないけれど運に賭けようと思って、京都で志村さんの作品を展示しているギャラリーに出かけていった。
 そのギャラリーで志村さんの作品を見ていると、ギャラリーの担当の女性が声をかけてくれたので少し話をして、風の旅人という雑誌で志村さんのインタビューをお願いしたい旨を伝えたところ、その方は、風の旅人の読者だった。
 それで、その方が、ぜひ私に志村さんに会って欲しいと、志村さんがギャラリーに来られる時間を教えてくれたので、私は、近くの平安神宮で時間をつぶして再訪したら、志村さんがおられた。
 そして、お会いしてすぐ「インタビューはお断りしているのよ」と言われたものの、いろいろと話をしているうちに話が深まっていき、1時間半くらい経った。私は、この雑談の内容で十分にインタビューになっていると思うくらいだったが、帰り際、志村さんは、ごく当たり前のように、「それじゃあ、インタビューはいつにしましょうか?」と仰ったので、喜んで、改めて京都に来ることになった。
 そして、再び京都にやってきてインタビュー本番を行ったのだが、その話が終わった時、突然、志村さんが、「そういえば、三日くらい前に石牟礼道子さんと電話で長く話をしたよ」と仰った。 
 志村さんとのあいだで、石牟礼さんのことを話題にしていたわけではないのだけれど、何ものかの知らせが志村さんの心を掠めたのかもしれない。
 志村さんと石牟礼さんが懇意であることは知っていたが、その当時、石牟礼さんが重病だということは、石牟礼さんのファンの中では共有していた認識だった。
 その石牟礼さんと電話で長く話をしたと志村さんから聞いて、驚いた私は、「電話で長く話ができるというのは、インタビューも可能なくらいですか?」と図々しく尋ねた。
 というのは、風の旅人の次の48号のテーマは「死の力」と決めていたのだが、このテーマでロングインタビューができる人が、他に思い浮かばず、石牟礼さんこそが最適だと思っていたからだ。
 それで東京に戻った私は、一縷の望みをかけて石牟礼さんに手紙をお送りした。
 すると、若い頃の石牟礼さんの才能を発掘し、長年寄り添ってこられた渡辺京二さんから、「新たな仕事をお受けする状況ではないけれど、このテーマは石牟礼さんでなければというのは理解できる。とはいえ、インタビューのために熊本に来られても、その日の状況で、インタビューができない可能性も高い。それでも構わないのなら、状態が少しでも良さそうな時に連絡する」との返事があった。
 そして、そのお返事を待ち続けて、今なら可能かもしれないという電話を受け、私は、その日の夜の飛行機で熊本入りをした。
 深夜遅く、タクシーの運転手まかせで入ったホテルが、石牟礼さんの「椿の海の記」の舞台の湯の児温泉で、石牟礼さんが幼い頃に過ごした場所だった。
 インタビューの直前まで、果たしてどういう話ができるものかと不安でしかたなかったが、その奇跡的な偶然から話を始めたところ、石牟礼さんの幼い頃の記憶が次々と溢れ出てきて、話が広がっていった。
 志村ふくみさんのインタビューも、石牟礼道子さんのインタビューも、現実の流れではあったけれど、とても神秘的な流れでもあった。
 こういう神秘は、同じことをもう一度やれと言われてもできない。
 最初に張られている運命的な縦糸に、直感的な判断で横糸を張っていくことで、自ずからできた造形だった。
 こういうことは、私たちの現実の全ての事において起こる。
 直感的な判断で横糸を張る時、心に濁りがあると、その濁りから全体も濁っていく。
 心の濁りには、打算的なことや狡いことだけでなく、必要以上に自己卑下をしたり、自信の無さを、他のできない理由に差し替えたりすることも含まれる。
 そうした雑念を捨てて、何に心を集中し、何に耳を傾けるのかが大事になる。

 「そのとき 時が傾き、打ちならす晩鐘の
 澄んだ響きに 私は心をゆさぶられる。
 私の感覚はうちふるえる。私は感ずる、できる、とーーーー
 そしてわたしは造形の日をつかむ。」

 志村ふくみさんは、このリルケの詩の一節をなんども読み、書き写すことを夢みていた。
 どこに書き写すのかというと、80歳を過ぎてから、長年の願いをかなえるべく書き進めた『晩禱 リルケを読む』という著書のなかにだ。
 「このリルケの詩集を読み、そのことについて書くことは、この詩集の背後に連なる膨大なヨーロッパのギリシャ哲学、古代キリスト教の思想等を多少とも理解しなければ到底読み込むことはできないと痛感し、リルケが、何を語り、何を訴えているのか、真実うけとめることが出来るのかと自問するたびに、忽ち崩れ去る自信をなんども経験した。
 しかし、どうしても捨てきれない。あきらめることができない。それだけの器でなくてもわかりたいという気持、それだけはどうしようもないのだ。」
 と志村さんは書く。
 しかしながら「私の感覚はうちふるえる。私は感ずる、できる、と」という一念で、横糸を張っていき、「すべてをこの地上の生のうちに見ようとして」作り上げた織物のような本として、その一念が成就した。
 そして、私は今、「かんながら」というテーマで作っている本の最後の仕上げをしているのだが、リルケの言葉は、日本の古代を考えるうえで重要なテーマである「かんながら」と非常に響き合うものがある。


 この本の最後に、最近撮り始めた都市の写真を入れているのだが、そこにリルケの言葉が重なってくる。

 これは、最後であるけれど、今後に続く最初でもある。
 「すべてのものを、神秘的なものも、死も、すべて生のうちに見ること。すべてのものを価値に上下のないものとしてこの生のうちに見るとき、そのとき、ひとつひとつのものがそれぞれ意味を持つようになる。」

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