第1491回 日本という国の宿命

 

 ペルセウス座流星群が極大を迎えた8月12日深夜、北海道では低緯度オーロラが観測され、流星群とオーロラの共演が見られたと話題になった。
 確かに美しいのだが、なんだか不吉な気配もある。
 測量工学の世界的権威としても知られる村井俊治(東京大学名誉教授)さんが、かなり以前から、「地震予測」の研究を続けておられ、その方法として、次の4つのポイントに着目している。
1. 地殻が変動する
2. 低周波の音が伝わる
3. 低周波の電波が出る
4. 電離圏に乱れが起きる
 地震の専門家ということで莫大な国の予算をあてがわれている地震学は、地震のメカニズムを研究するもので、地震の前兆を捉える研究はしていない。単なる事後説明でしかなく、我々の現実において、まったくといっていいほど役に立たない。
 「いつ地震が起きても不思議はない状態のところで、さらに高くなった。地震学的には”数倍高くなった”は極めて高い確率」といった理屈を並べるだけである。
 そんな後付け説明ではなく、前兆を捉える研究の方が遥かに重要なことは言うまでもないが、なぜか、こちらには、あまり国家予算が割かれていない。
 そんなことに挫けず地震予知の研究を続ける村井さんが、重要視しているものの一つとしてオーロラの発生がある。
 オーロラは、太陽活動と密接に関係している。太陽風のプラズマ(気体の分子が陽イオンと電子に分かれた状態)が地球の磁力線に沿って高速で降りてきて 大気に含まれる酸素や窒素の原子を励起して発光する。
 村井さんは、磁気強度と地震の間に高い相関があると考え、 過去の大地震の前のオーロラエレクトロジェット(AE)=オーロラの強度の状況を詳細に調べた。 
 するとやはり、大地震の前にはオーロラエレクトロジェットの異常な擾乱が現れていた。
  2011年3月11日の東日本大震災の10日前の3月1日と地震前日、 2016年4月16日の熊本地震の14日前と9日前と3日前。さらに世界的に大地震として強く記憶されている2004年12月26日のスマトラ地震では、13日前と14日前に大きな擾乱が出ていた。
  さらに、 1996年2月から2021年3月までのM8以上の大地震27個の前の状態を調べたところ、大地震発生の半月前までに、オーロラエレクトロジェットの大擾乱が起きた確率は77.8%で、 1か月前までに大擾乱が起きた確率は96.3%ということがわかった。その検証において、大地震とオーロラエレクトロジェットの大擾乱の発生のあいだの最長期間は33日前なので、大擾乱が起きてから約1か月のあいだには、どこかで大地震が起きる可能性が高いこともわかった。しかし、それがどこで起きるのかが、現状ではわからない。
 日本の古代においても、天に現れる不吉な兆候と、地上の厄災のことが、詳細に記録に残されている。とくに、日本書紀においては、さきほどのエントリーにも記録した律令制開始直前の天武天皇の時代が顕著で、ざっと並べるとこれだけある。
 天智紀3年(664年)3月。難波京の北で星が落ちた。地震があった。
 666年 6月、大旱魃。 秋7月、箒星が東の空に現れた。9月になって大空に覆った。
 667年夏5月、旱魃があり、6月、大地震があった。
 668年冬12月、鳥が空を覆って、西南から東北方向に飛んでいた。 筑紫の国で大地震があった。多数の民家が崩壊した。丘が崩れて流れ出た。。
 669年6月。雹が降った。大きさは桃の実ほどもあった。
 10月、地震があった。11月、また地震があった。
 670年8月。灰が降った。雷電が激しかった。9月、地震が発生した。11月、日蝕があった。後日、月蝕も起こった。
 671年6月、雨乞いをした。地震がまたあった。9月、箒星が現れた。火星が月と重なった。10月、日蝕があった。 その後地震が起こった。11月、地震がまたあった。
 672年1月、地震があった。3月、また地震があった。7月にも地震が発生した。
 8月、灌頂幡のような形の火色のものが、空に浮かんで北に流れ日本海に沈んだ。この日、水蒸気が東の山で発生し、その大きさは一丈二尺もあった。 次ぎの日、地震が起きた。虹が天の中央に向かい合って現れた。
 673年7月から8月に至るまで日照り続きで雨が降らなかった。
 674年6月、雨乞いをした。7月、箒星が西北の空にあらわれた。
 10月、夜中に大地震があった。人々は、叫びながら逃げ惑った。山崩れが起こり、土砂は川に溢れた。伊予の国の道後温泉では湯がでなくなり、土佐の国では田畑が一千町歩も埋まり海となった。古老曰く。このような地震古今東西はじめてであると。
 東方の海で鼓の鳴るような音が聞こえ、伊豆大島の西と北の両面が三百丈余りひろがり、新島ができた。
 11月、土佐の国から高波が押し寄せ、海水が溢れ返った。
7つの星が東北の方へ流れ落ちた。日没時、星が東の方へ落ちた。
夜8時頃、隕石が大空を雨のように流れ落ちた。
 天の中央に仄かに光る星があり、昴と並んで動いていた。
 675年3月、信濃の国に灰が降って草木が枯れた。12月、西の方で地震が起こった。
 664年からの10年間の出来事が凄まじくて、後半は、まさに聖書の黙示録のようである。地上の出来事と、天の兆しが克明に記されているのは、大きな変調において、天と地のあいだに何かしらの深いつながりがあると、意識されていたからだろう。

 8月11日に日向灘で大きな地震が発生し、その後、オリンピック期間中、テレビ画面の端に、南海トラフ地震臨時情報が告知され続けた。そして、南海トラフ地震評価検討会の会長は、「いつ地震が起きても不思議はない状態のところで、さらに高くなった。地震学的には”数倍高くなった”は極めて高い確率」と説明した。
 南海トラフ地震では、当然ながら四国や東海などに大きな被害がもたらされることが想像されるが、2020年に、政府の地震調査委員会が発表した「全国地震動予測地図」において、震度6弱以上の巨大地震に襲われる確率が高いのは、四国や東海だけではない。最も高い確率は、なんと茨城県の水戸で、81%だ。

水戸の地域は、陸側のプレートの下に海側のプレートが沈み込んでいる影響で、巨大地震が起きる宿命にあるのだという。
 南海トラフ地震は、この地下プレートの重なる部分にエネルギーが溜まって、それが周期的に発散されるメカニズムによるものなのだから、水戸付近もまた、そのプレートエネルギーの周期の影響を受けやすいということだろう。
 そして、8月11日の日向大地震のあと、「水戸」という場所と地震との関連についてのニュースを見た時、7月19日に書いた記事のことを思い出した。7世紀の後半、日本に律令制が始まる直前の白鳳時代南海トラフ地震や、浅間山の大噴火があったことがわかっている。その後、日本には、八角墳という特殊な形の古墳が作られた。世界中でも日本だけだし、日本においても、この数十間だけ作られた古墳で、天武天皇天智天皇斉明天皇舒明天皇といった、この時代の大王や、その関係者と思われる人物の御陵だけ13基が作られた。しかも、近畿に8基(そのうち鳥取に1基)と関東に5基だけだ。この謎については、まだ誰も解き明かしていない。

私は、この八角墳の場所を地図上に配置して、不思議な規則性に気づいた。
 日本には、九州と、関東周辺に、代表的な火山がある。
 九州には桜島阿蘇山雲仙岳、関東周辺では、富士山、浅間山八ヶ岳だ。
 そして、この東西の代表的火山は、なぜか冬至のラインで結ばれている。
 桜島と富士山、阿蘇山八ヶ岳、雲山岳と浅間山となる。
 さらに不思議なことは、7世紀の後半から8世紀初旬に作られた八角墳の多くが、この代表的火山を結ぶライン上に築かれているのだ。

しかし、八角墳のうち、この火山ラインの上に築かれていないものがあり、それが、奈良の飛鳥と、甲府の笛吹と、茨城の水戸なのだが、これらの八角墳もまた東西にわたる冬至のライン上に規則正しく配置されており、このラインは、東西の代表的火山を結ぶ冬至のラインと平行している。
 そのうえで、南海トラフ地震に関係してくると思われる九州の日向と、関東の水戸を結んでいるのだ。
 その西の端が宮崎の延岡(日向)の笠沙山(神話の中でコノハナサクヤヒメとニニギが出会った場所とされる)であり、東の端が茨城の水戸に築かれた八角墳の吉田古墳なのだ。しかも、この東西の端は、ともに、ヤマトタケル熊襲征伐と蝦夷征伐の代表的な関連地でもある。
 日本に律令制度が始まる時に築かれた八角墳は、明らかに、火山や地震のことが意識されている。
 白鳳時代南海トラフ地震浅間山の大爆発によって、人間の力を超えた大自然の猛威を経験し、これを鎮める祈りが、律令制の中に組み込まれたことは確かだろう。
 日本における天皇制が、いつ始まったのか?
 その起源を考えるうえで、ヤマト王権などを想定した権力者としての大王と、祭祀者としての天皇を一緒くたにして考えている人が専門家の中でも多いが、日本の天皇というのは、権力者ではなく、祭祀の権威的存在である。
 つまり、国の安寧を願う祈りの力によって、国全体を統べること。それが日本の天皇であり、その天皇の祈りの力が、どこからどこまで及んでいたかを考えることが必要になる。
 なぜなら、現代でもそうだろうが、大自然による破壊は、人間社会に混乱をもたらし、治安も悪化し、そこに付け込んだ人間の悪徳も巨大化しやすいのだが、天皇の祈りの力というのは、自然の猛威を封じ込めることができなくても、人間社会の混乱を鎮める力にはなる。
 自然の猛威よりも、人間の悪徳の方が、世の乱れを拡大させる。だから、人間には、敬虔なる祈りが必要であり、そうした事情のうえに発明されたのが日本の天皇制だろう。
 天皇が被災地に足を運び、膝をついて被災者の手を握って語りかけるだけで、どんな苦境であっても救いをもたらし、混乱を増長させない力になりうる。
 政治リーダーというものは、自らの人生においても、常に勝つか負けるかで命運が大きく変わるということを繰り返しているから、人生の価値判断として、そのカルマから抜けきれない。
 しかし、本来の天皇は、勝つか負けるかではなく、自らの人生を犠牲にする覚悟か、国民の人生を犠牲にしてしまうのかという価値判断でしか、人生をはかれない。
 自然の猛威だけでなく、人間の悪徳もまた鎮める力を秘めたものが、1300年前に発明された天皇の祈りの姿勢なのだろうと思う。
 そして、その発明の背後には、上述したように、664年からの10年間の天変地異があったと思われるが、それだけでなく、663年の白村江の戦いにおける大敗戦があり、672年には古代最大の内乱とされる壬申の乱があった。この時代は、まさに聖書の黙示録のようである。これだけのことが立て続けに起きれば、人間心理にも大きな変化が起きて当然であり、天皇を中心とした律令国家の形成には、そうした世の中の状況が関係していたと思われる。果たして、現代においては、これからいったいどうなっていくのか。これからの30年で、私たちは、大きな試練のなか、人間としての叡智を試されることになるだろう。________9月7日(土)、8日(日)、東京で、フィールドワークとワークショップセミナーを開催します。詳細と、お申し込みは、ホームページにてご案内しております。

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