第1490回 狭い舞台空間を広大な時空に変成する小池博史のブリコラージュ力。

 

photo by 許方于

 感想を書いているうちに長くなる。複合的で多面的で多層的に大事なことなので手短に書くことは不可能。だから仕方がない。
 一昨日、小池博史の脚本・構成・演出による舞台、「Breath Triple」を体験するために、猛暑のなか、木場まで行った。
 劇場を出た後、しばし暑さも吹き飛ぶ清々しい気分。
 それにしても、小池さんの創造力と、エネルギーにはいつも驚かされる。今までにない体験をさせられることを、ある程度は想定したうえで出かけているのだが、その想定の範疇を超えるものを見せられるので、一種のカタルシス(魂の浄化)が起きる。
 自分の中にすでに準備されている認識や、世間一般に流通している認識、もしくは、それらに少し毛が生えた程度のものでは、こうしたカタルシスは起きない。
 芸術表現に対して、各種の評論家が、いろいろな理屈で分析して持ち上げたり見下しているが、そうした理屈分別はどうでもよく、心の中に何かしらのカタルシスが起きるかどうかが、芸術体験としては肝心だ。
 カタルシスが起きてはじめて、新しい視点、新しい意識、新しい活動、新しい人生へのスタートに立てる。優れた芸術表現は、そのように人生における位相変化を促す力がある。 
 一般的に、アート分野であっても、世間受けの良さと評価が一緒くたになってしまっているが、世間受けの良さは共感のバロメーターにすぎず、そして共感というのは、現状の位相に留まるための安心剤のようなもので、人生における全く新しい扉を拓く力とはなりえない。
 自分にとって未知の領域へと誘ってくれる表現というものは、自分の中にそれを受け入れる準備が整っていないのだから、共感することは難しく、場合によっては不安や混乱や畏れを与えることの方が多い。そういう体験に慣れていない人は、その体験を消化するのに時間がかかり、自分を変えていきたいと願っている人は、自分の内側からジワジワとその影響が広がっていくし、現状にあぐらをかいている人は、生理的な拒否感や嫌悪感を覚える可能性が高い。
 だから小池さんの、世界中どこにも存在しない新しい舞台表現は、一般の凡庸な評論家にとっては取り扱いが厄介なものになる。自分の中に、作品を評するボキャブラリーが準備されていないからだ。
 だから、なかには「わかりにくい」と片付けて、自分の無能さを晒すだけの人もいるだろう。そもそも、簡単に説明ができてしまう程度のものならば、あえてエネルギーを注ぎ込んで、多くの人を巻き込んで、深い対話を繰り返して、練り込んで作り込んでいく必要がない。
 小池さんの台本は、エンジニアリング(設計・計画)的な発想に基づく命令書ではない。小池さんは、役者や美術家や音楽演奏者など舞台に関わる全ての人たちを、自らの管理下に置くことなど微塵も考えていない。
 小池さんは、ブリコラージュ力によって舞台を整えていく。ブリコラージュの意味を、単なる寄せ集めと理解している人がいるが、そうではなく、最適組み合わせである。
 最適組み合わせというのは、組み合わせることではじめて新たな大きな力が引き出されるような組み合わせである。
 それは、人と人の場合でもそうだし、身体と映像、舞踏と音楽、静的な美術と動的な劇の進行といった具合に、どれ一つ単独ではなく複合的な組み合わせの相乗効果で高まっていくものである。
 小池さんの舞台作りにおける才能は、まずはそのブリコラージュのセンスにある。それは、台本の作り方においても反映されていて、以前から感じていたことでもあった。
 今回、舞台が終わった後、出演者のパフォーマーである松島誠さんと少し話をしたが、小池さんの台本というのは、演じる側の自由度がかなりありそうな書き方のため、パフォーマーは、それぞれ自分で考えて創意工夫を凝らすのだが、稽古の段階で、そのパフォーマーの創意工夫と、小池さんの認識の激しいすりあわせが行われ、その対話の深まりによって、当初は想定できていなかった領域へと辿り着くということを言っていた。
 パフォーマーに自由度があるからといって好き勝手にやってもらうということではない。だからといって、こうしないといけないという頑固な決まり事を設けているわけではない。しかし、目指すべきところは、当初は具体的でなくても、潜在的には、はっきりしている。
 私は、この話を聞いて、1956年にマイルス・デイヴィスクインテットが行なった2日間のレコーディング・セッションのことを思い浮かべる。
 この僅か2日間で収録された音源は、4枚のアルバムに成就した。『クッキン』『リラクシン』『ワーキン』『スティーミン』というジャズ史上に残る傑作群だ。
 マイルス・デイヴィスは、当然ながら、メンバーたちに楽譜を手渡したり、どう演奏するかといった具体的な指示などは行わない。
 ジョン・コルトレーン(テナー・サックス)、 レッド・ガーランド(ピアノ)、 ポール・チェンバース(ベース)、 フィリー・ジョー・ジョーンズ(ドラムス)といったメンバーは、規律的に整えられた歯車の一つではなく、それぞれが、何にでもなりうる潜在的な可能性を秘めた創造者たちだ。
 マイルスは、彼らに、何かしらのメッセージを書いたメモを渡す。その内容をどう解釈するかは、人それぞれかもしれない。
 しかし、マイルスが、高らかにトランペットを奏でて、その波動がメンバーたちの心の中に届いた瞬間、彼らは、自分が成すべきことを一瞬で理解する。そして、それを具体的にアウトプットする。だからといって、それは、最初から正しい答えとは限らないが、何かしらの閃きを受けて最初に演じた人の演奏を受けて、次に演じる人は、一連の波動の連続から、流れを整えるのか、敢えて乱すのか、どこかへ飛躍するのか、瞬間的に判断して後に続く。そのようにしてインプロが無限に重なっていく。その全体に対して、またマイルスが揺さぶりをかける。
 こうしたインプロは、メンバーが自分のやりたいことを好き勝手に行っているのではなく、深い対話と試行錯誤を繰り返しながら、みんなで目指すべきところを目指すという真摯で全身全霊な取り組みの積み重ねだ。だから、次第にドライブがかかり、熱がこもり、雷鳴のように鋭くなり、絶妙な調和が生まれる瞬間が訪れる。
 小池さんが、マイルスデイビスのことを深く敬愛していることはよく知っている。マイルスに限らずジャズのインプロヴィゼーションの真髄を、小池さんが深く愛していることは間違いない。
 インプロに対する一般的な認識として、即興演奏で、演奏者の解釈で自由に演奏すること、型にとらわれず自由に思うままに作り上げることなどと理解されているが、それは、ブリコラージュを単なる寄せ集めと理解するのと同じ陳腐な認識だ。 
 型にとらわれない自由などというのは、型にとらわれすぎたものとの対比にすぎず、中身ではなく「型」という表面的な形の差異でしかないわけだから、「型にとらわれない自由」などという新たな型を作る頽廃のプロセスの一環にすぎない。
 マイルスの音楽も、小池さんの舞台も、私がブリコラージュの例としてよく使う石垣づくりに似ている。
 大きさも形も異なる様々な石が、見事に組み合わさった時、設計思想で作った石の壁よりも、堅牢で、かつ美しいものになる。そして何よりも、何度見ても、その複雑精妙な組み合わせによる造形は、飽きることがない。
 その際、全体を構成する石の形や大きさが複雑になればなるほど、見事に整えられた全体は、圧倒的なオーラを帯びることになる。
 前置きが長くなったが、今回、小池さんは、「Breath Triple」という舞台において、これまでのように、舞踏、演劇、音楽、美術、そして最近になって大きなウエイトを占めるようになってきた映像といった各表現のブリコラージュにくわえて、新たなものを打ち込んできた。その効果が、あまりにも衝撃的で、私は度肝を抜かれた。
 それは仮面劇だ。 
 「Breath Triple」のTripleが、何を指しているのか、舞台の進行においては、体制権力と、体制権力によって抹殺された宗教グループと、第三者として交わった人々ということになるが、それだけだと、地上の現実における三つの立場の違いにすぎない。
 今回の 「Breath Triple」においては、そうした地上の現実の立場の違いにくわえて、生者からの視点、死者からの視点、その生と死を俯瞰する視点の三つのレイヤーが重なってくる。
 そして、舞台という非常に狭く限られた場を、二層ではなく三層にして超越的な時空に転換する力となっているのが、仮面の力なのだ。
 パフォーマーの松島誠さん、今井尋也さん、小林玉季さんが、仮面をつけた時の豹変ぶりが凄まじい。オーラや、全身から立ち上る色が違ってしまい、舞台が、別の時空に切り替わってしまう。
 この劇的変化は、生舞台でしかわからないものだ。
 20年くらい前になるが、大分のケベス祭りという火祭りを体験した。誰が仮面を被るのかは直前まで決まらないということだった。そして、祭りの当日、人々は禊のために海に向かった。その時、穏やかな一人の若者も、ゾロゾロと集団で歩いていた。その若者が、仮面を被る人物だったけれど、その時まではまるでその気配がなかった。
 しかし、祭りが始まる神聖なる儀式のなかで、その若者が仮面を顔につけた瞬間に、この世の時間が静止し、空間が別ものになることが感じられた。その若者は、もはや以前の若者ではなかった。憑依というのは、こういうことだろう。
 今では、危険すぎると行政指導が行われてしまう荒ぶるな火祭りが、その時は、まだ可能だった。仮面をまとった若者は、巨大な松明を掲げ、群集の中に突入して火の粉を撒き散らした。悲鳴をあげながら逃げ惑う人たち。10分くらいの出来事なのか、それとも1分なのか1時間なのかわからないが、終わった後、憑物が落ちたかのように、自分の中が清々しく感じられた。本来の祭りが備えていたカタルシスがそこにあった。
 そうしたカタルシスを引き起こす力としての憑依体験。
 今回の小池舞台の「Breath Triple」において、仮面が、そのトリガーになった。
 仮面をつけて演じた松島さんは、小林玉季さんが仮面をつけた瞬間、目の色まで変化してしまうので、それを見て、自分もトリップしてしまうと言っていたが、こうした憑依的なシンクロは、上に述べたマイルスのセッションにおけるメンバーの間でも起きていたことだろう。
 そして、仮面による位相転換を強力に促す力となっているのが、下町兄弟さんのパーカッションと、中村恵介さんのトランペットの絶妙な生演奏だ。さらに、中谷萌さんの絶妙な映像操作も、舞台の陰と表の境界を消していく。
 音も映像も、”間合い”が決め手になっていて、これはインプロの呼吸を心得ていないとできないし、小池さんの台本の文脈をどれだけ読みこむ力があるのかを試されることにもなる。
 そして、美術。パフォーマーが演じる舞台空間となるだけでなく、映像によって部分が切り取られてパフォーマーと等身大に重なることで、劇中に秘められたメッセージが、より濃密になっていく効果を作り上げている山上渡さんの美術。この美術空間もまた、異彩なものたちが何の矛盾もなく、かといって予定調和にまとまるわけでもない見事なブリコラージュになっているのだが、舞台の場力を高める重要な役割を果たしている。

 この「Breath Triple」の舞台のもとになっているのは、19世紀末、共和制への移行直後のブラジルで起きた、ブラジル史上最悪の内戦、カヌードスの乱だ。
 大土地所有者の搾取や旱魃に苦しむ貧しい農民や大衆が、宗教指導者アントニオ・コンセリェイロを救世主と慕って集まり、バイーア州の奥地に千年王国的共同体を設立した。その共同体と警察隊との小競り合いが次第にエスカートし、政府の討伐派遣軍が多大な損害を出して敗北し面子をつぶされたことで、ついに、11,000人以上の大軍を投入し、その半数5,000人の死傷者を出して、25,000人と言われた千年王国的共同体の全員を殺害するという事態に発展した。
 国家と宗教が絡む戦いという今日の世界でも繰り返されている人類の悲劇が、100年以上前の歴史的事実のなかにも存在しているが、もちろん小池さんは、インテリ界隈で手垢まみれになっている整理の枠組みのなかで「難しい問題ですねえ」などとテレビ解説者のように深刻な顔をして、その場を取り繕うという陳腐なアウトプットをしない。
 なにせ、ガルシア・マルケスの「100年の孤独」や、古代インドの大叙事詩、「マハーバーラタ」、そして今は、手塚治虫氏の「火の鳥」という、時代や社会の限定を無化してしまう壮大な世界を、空間的に狭く限られた舞台の熱で濃密に圧縮して、変成させたうえで昇華しようとする人である。
 彼にとっては、100年前も1000年前も3000年前も同じ人類の宿業が根元的テーマであり、その宿業の中で、絶対に逃れられないものとして死がある。
 死がなければ、人間の戦いもないだろうし、人間の芸術もないだろうし、「楽園」もない。
 「Breath Triple」の舞台進行のなかで、「楽園」を歌うシーンが出てくるが、こうしたシーンを台本に組み込んでいける小池さんの哲学の深さがよく伝わってくる。
 こうした人間における真理の描き方を、それこそ古代から現代まで、優れた芸術家たちは、試行錯誤を繰り返し、時代を超えて受け継がれる精神の結晶を作り出してきた。
 世阿弥観阿弥が一つの至高の芸域にまで高めた能もそうだ。
 小池さんの舞台は、現代に可能な表現技術を組み合わせて生と死の境を超えていく現代能のようなものであり、先人たちの仕事を今風に再構築した表現である。その意味で、古きを温めて新しきを知るものである。
 先人の知恵を学びましょうなどと教養人ぶって分別くさく言うだけでは何にもならず、古きを温ねて、新たな道理を導き出し、新しい見解を獲得し、その上で新たなものを創造すること。
 最近の映画では、巨額のお金を投じ、莫大な数のエキストラを使い、CGなどを駆使して人為的に非現実空間を作り出そうとするが、重層性に欠けていて、設計計画の枠組みの中のアウトプットでしかないため、高速でカットチェンジを繰り返したり、音響効果や大振動でスケール感を出そうとしても、時空の広がりや、余韻は、あまり感じられない。むしろ、世界観や人生観としては、非常に狭く、手垢まみれのものだ。だから、映像のなかでどれだけ凄まじい破壊活動を見せようが、 SF的宇宙空間に飛び出していこうが、人生の新しい扉を拓く新しい視点はどこにもない。
 小池さんの舞台は、それらに比べて極めて限定的なスペースで、予算や、登場人物や音楽や美術を担う人たちの数も最小限である。
 しかし、その限られた人たちが、それぞれ複数の役割を果たしながら、インプロの相乗効果で場を変成させていく時、狭い舞台空間が、広大な時空になる。
 実は、これこそが、真の意味で人間力の現れである。人間の脳の特別な力は、過去と現在、彼岸と此岸、ミクロとマクロをつないで普遍の真理を浮かび上がらせる。
 人間には、誰しもこの人間力が秘められており、だからこそ無限の可能性があるのだが、計画と設計と管理こそが有能の証とする社会なかで、一人ひとりが歯車の一つのような扱いとなり、そこから逃れるどころか、その役割に順応するように洗脳する教育やメディアの影響を受けてしまっている。
 そのように、私たちの心身の奥では、解放されないままの魂が固く閉じて惰眠状態にある。
 その魂を揺さぶって長い眠りから覚醒させる力こそが、未来に橋を架ける芸術表現のミッションなのだ。
 そして、そのように、どんな苦境でも人類に絶望してしまわず、僅かでも希望を見出そうとするミッションこそが、本来の人間愛であり、どんな小池作品にも、その核には、そうした人間愛が充溢している。

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