自己表現と、他者表現

 風の旅人26号で『浅草善哉』を紹介した写真家の古賀絵里子さんの展覧会が、広尾のエモンフォトギャラリーにて開催されている。

 http://www.emoninc.com/test/exhibition/kogaeriko.html

 2003年に出会った浅草に住む高齢の夫婦の日常へ6年間通い撮り続けたドキュメンタリー作品だ。風の旅人の誌面では充分に紹介しきれなかった老夫婦の日常の細部が克明に描きだされている。
 これらの写真が素晴らしいのは、カメラ(撮影者)の存在がまったく感じられないことだ。「高齢者夫婦の生活」のドキュメントという名目で外部からカメラが持ち込まれ、その生活が記録されて伝えられることは多くある。
 カメラで写しだされたものは言葉のようにごまかしがきかないと一般的には思われているから、その記録は「ありのまま」の状態をとらえていると信じている人は多い。しかし、フレームで特定のものを囲い込むことじたい、既に恣意的な行為なのであって、純粋な客観性など無い。また、意外と忘れられているのは、被写体の心理や行動や場の雰囲気が、カメラがあることで既に歪められているという事実だ。
 現在、恵比寿の写真美術館で行われている「世界報道写真展」にしても、展示されている「写真」そのものが何かを語りかけるほどの力を持っていないのに、「言葉の説明」(社会通念に従属した善悪などの価値)によって深い意味づけをして、「写真」の価値の底上げしているものが多い。
 大賞をとった「アフガニスタンのコレンガル渓谷の掩蔽壕で休息をとる米軍兵士」の写真について、「戦闘の合間に休息を取る兵士の姿が写し出されたティムの写真の、闘いに疲れ切った兵士からは、大国の疲弊がうかがえる」などという説明は、その典型だろう。→ http://www.syabi.com/details/wwp2008.html
 実際の戦争において「闘いに疲弊する」というのは、この写真に現れている程度の軽いものなのか、「大国の疲弊」というものも同様に、この程度のものなのかと、天の邪鬼な私は思わずにいられない。この種の写真からは、もうこれ以上は耐えがたいというほどの「疲弊」が伝わってこないのだ。「掩蔽壕」という説明がなければ、戦争の最前線かどうかもよくわからないだろう。おそらく、この写真が表現している程度のことは言葉でも充分に伝えられることであって、写真が言葉に負けてしまっている。写真が、言葉で描ききれない領域(言うに言われぬもの)を写しているとは、とても思えない。
 話しは横にズレたけれど、古賀さんの高齢者夫婦の写真は、どの写真からも、「言うに言われぬもの」が濃密に漂ってくる。
 写真の隅々に、「言うに言われぬもの」が充満していると言ってもよい。
 老夫婦のあいだの、長い歳月をかけなければ決して生まれない微妙で強い絆。「愛情」などと簡単に言葉にできないもの。たとえば、使い込んでボロボロになっているけれど、その価値は自分にしかわからないという大切な道具に対する愛おしさのようなもの。
 二人のあいだだけでなく、家の中の様々な物と物、物と人間のあいだに、そうした空気が充満している。そして、その微妙に愛しい空気が、なぜ、写真に写っているかというと、撮影者の古賀さんと被写体のあいだにも、同じように深い「愛着」で満たされているからなのだ。単に仲が良いという程度のことではなく、肉体の一部のような愛おしさによって。
 そのような深い愛着によって、撮影者と被写体のあいだの空気が混ざり合って、溶けあっており、両者を遮断する層がなくなっている。
 彼女の写真を見て、カメラや撮影者の存在(気配)がほとんど感じられないのは、それが理由だと私は思う。
 古賀さんは、まだ若い写真家だが、彼女の一番の持ち味は、他者と自己の間で遮蔽する何かを、一瞬にして無化してしまうことだと私は思う。
 近年、若い人で、「自己表現」と称して写真を撮っている人は多い。それらの写真を見て心を動かされることは、ほとんど無い。その理由は簡単だ。「自己」などというものの底はたかが知れていて、その浅い底から宝物だと思って取り出して他人に見せても、どこかで見たようなものばかりになってしまうのだ。同じものを持っている人が、「自分と同じ」だと共感してくれるかもしれないが、自分も持っているものだから、すぐに飽きてしまう。好意を持つことがあっても、強く惹かれることはない。だから何となく物足りない気持ちが続く。
 私が関心あるのは、「自己表現」ではなく、「他者表現」だ。
 「他者表現」は、「他者」との共同作業だから、そこに「他者」との関係性が現れる。両者の共同によって表現の力が増幅することもあれば、干渉し合い、相殺し合うものもある。両者の掛け合わせ方は無限にあり、時と場所の違いだけでも微妙に異なってくる。長い時間をかけて、そうした「他者表現」に徹すると、関係性の微妙な変化が階調となって写真に焼き付けられる。だから、たくさんの写真を見ても、飽きることがなく、その微妙な空気の移り変わりの時間を、共有することができる。一枚の写真で奇をてらったような固有性を主張するのではなく、表現世界全体の空気として、他に同じようなものはないと感じさせる固有性なのだ。
 「自己表現」のように閉じた写真は、何枚か見るだけで、「全部同じようなものだ」と感じて、時間が一定の場所に停止してしまうのに対し、表現世界全体の空気として微妙な固有性を実現しているものは、時間がゆるやかに流れる。
 これは人との関係でも言えることで、個々のアクションの奇抜さよりも、ニュアンスとしての面白さの方が、その味わいが時間とともに深まるような気がする。 
 時間がゆるやかに流れている関係は、疲れず、心地よい。だから、そうした写真を並べた展覧会場も、とても良い”気”が流れ、ずっといたくなる。
 エモン・フォトギャラリーのオーナーでありディレクターの小松さんは、古賀さんの写真を見て、それを直観で見抜いていたのだろう。今回の展覧会では、いつもより小さめのプリントを数多く用意し、一つ一つ味わいのある額に入れて、丁寧に展示している。
 丁寧に額装された小さめの写真は、掌に包み込んだ大切な物のような趣をたたえている。 豪華で立派で人が羨むような宝物でなくても、掌で優しく包みたいと思える小さな宝物を数多く持っていることが、人が生きることにおいて、かけがえなく、幸福なこと。言葉でそれを言うと説教臭くなるが、今回のエモンフォトギャラリーでの古賀さんの展覧会は、言うに言われぬ空気で、その微妙な綾を伝えているように感じられる。