第955回 人間として引き継いでいくべきものを写す写真


 現代社会は、概念としてできあがっている「問題意識」を上塗りする社会的・政治的な写真や、消費社会で商業的に成功した写真をもてはやす傾向が強い。しかし、そのどちらの写真があってもなくても、世界の見え方や、受け止め方に、そんなに大きな変化は生じない。
 だから、たとえ、その写真が過激な政治的傾向を帯びていたり、マスコミで評判を呼んだとしても、どこにでもある無難な写真である。

 誰もが概念として知っている時代社会を演繹するプレゼンテーション資料になったり、政治運動のイデオロギーの補強になるかもしれないが、それは、かなり以前から繰り返し行われてきたステレオタイプなのだ。

 そうした写真は、何度も何度も視たくなるということにはならない安易な仕事だと思うが、この消費社会において、なぜだかその類の安易な仕事に対してお金を落とす人は多く、誰もができるわけではない困難な仕事にお金を払う人は意外と少ない。”親近感”とか、”わかりやすさ”という媚びが、消費社会で成功する鍵だからだ。
 媚びのあるものは飽きられやすい。飽きられやすいから次の消費に向かう。それが、右肩上がりの経済を成功させる秘訣でもあった。
 そのように入れ替わりの激しいことを活性化と呼ぶようになり、人間として引き継いでいくべき大事なものは見えにくくなり、そのことがさらに、買う人に媚びた消費財や表現の大量生産、大量消費の構造を強化することにつながった。
 しかし、その浪費の果てに空虚しかないことに気づき始めた人も、少しずつ現れてきているのではないか。
 決まり切った現実の中で戯れるだけだったり、戯れの合間に問題意識を唱えていても、自分が時間を消費しているように、自分の言動もまた消費されるだけで、どこにも引き継がれず、自己満足にすぎないことが、次第に強く意識され始めている。
 自分の作り出したものが、受け手の中で、いつまでも残る深い記憶になったり、愛着を持って使い続けられたり、その受け手が死んだ後も誰かに引き継がれていくこと。人間は、問題の多い現実を生きながらも、そうした”永遠”につながりたいという願望を持っており、その願望が僅かでも果たされれば、限られた生に意義を見いだすことができる。
 とりわけ、表現だけを社会との接点にしている表現者は、消費社会の中の商業的成功よりも、永遠に至ることこそが最大の成功の筈であり、それを実現する為の努力も並大抵のものではない。
 しかし残念ながら、消費社会の成功者ばかりにスポットライトがあてられ、即物性のある結果を安易に追い求める人の方が多くなってしまった。そして、即物的な結果を支援するという専門学校やワークショップでは、お金を払って、即物的な結果における成功者のアドバイスに熱心に耳を傾けている人がたくさんいる。
 同タイプの結果を求める過剰競争のなかで、同タイプの粗悪品ばかりが濫造されて、写真表現が、人間として引き継いでいくべき何かを映し出すメルクマールになるなどという信頼は、もはや微塵もない。

 こうした写真表現の現状の中で、敢えて、鬼海弘雄さんの「Tokyo view」という大判の写真集を制作した。視る人に媚びた写真集ではないので、そんなに売れないだろうけれど、50年後、100年後にも残ると確信を持てるものを作りたかった。
 鬼海弘雄さんが撮る写真は、「何度も何度も繰り返して視てしまう。魅入ってしまう。そして何度視ても飽きない」とよく言われる。
 また、「その場所の空気が写っている」とも言われる。
 たまたまそう感じられるような一枚の写真というのは、世の中にわりとあることだが、鬼海さんの写真は、写真集に掲載されているほとんど全ての写真から、それが感じられる。
 場所によって、時間や季節によって、光線の具合も微妙に違ってきて、街の表情も変化していく。どのタイミングで、どこからどのアングルで撮るのかによって、視え方や感じ方は違ってくる。
 鬼海さんの写真のほとんど全ての写真から、その場所の空気感が強く感じられるのは、世界の表情、世界の見え方を、どう切り取りたいのか、鬼海さんの中に明確な設計図があるからだ。そして、鬼海さんには、その設計図に基づいて画面を作り上げ、プリントを焼き上げる技術の裏打ちがある。
 その設計図は、写真家の場合、思想や哲学という言葉に置き換えてもいい。

 写真はセンスだとか、偶然性とか、出会い頭と言う人がいるが、とんでもないことだ。写真に限らずどんな表現も同じだが、技術を疎かにしてしまうと、伝えるべきものが伝わらない。自分の技術の未熟さを棚にあげて、「視る人が自由に感じてくれればいい」などという言い方は、そんな中途半端なものを見せられても視る側は何も感じないのに、何も感じとってもらえないことへのプロテクションか、何も感じないことが感性の悪さであるかのように視る側に引け目を感じさせる詭弁でしかない。
 表現と称するもののなかには、その種の紛い物が、そこら中にまき散らされている。
 写真において、「その場所の空気が写っている」という言い方がなされる時、その空気とはいったい何なのか。
 たまたま1枚か2枚そういう感じがするという程度のものの場合、それは、空気ではなく、物をしっかりと視ていないことによる、人と物の隔絶でしかないことが多い。だからそれは、その場所の空気ではなく、それを視る人の心の孤独とか侘しさという、心の中の空気にすぎず、その空気が、その写真の醸し出しているものと、たまたま同期しただけにすぎない。
 鬼海さんの写真集のように、どの写真からも、その場所の空気が感じられるようなものの場合、その空気は、写真家が対象を視ている眼差しによって生み出されている。
 写真家が、フレームを定めて対象を視ている時、そこに在るものが現実に触れているものなのか、虚構として現実から離れたところに行こうとしているものなのか、その”あわい”と”揺らぎ”の中に写真家は存在している。その”あはい”と、”揺らぎ”こそが空気感なのだ。
 現実の単なるコピーからも、現実から完全に引き離された独善的な架空性(それを心的イメージだと煙に巻く人もいる)からも、空気感は生じない。
 ピントの合っていないぼんやりとした感じの空気っぽさを売りにする写真は、一種の現実逃避にすぎないが、”あはい”と”ゆらぎ”の空気感をまとった写真には、現実と超現実のどちらにも転ぶ緊張感がある。そういう写真は、じっくりと現実に踏みとどまり続けている写真家だからこそできることである。そのモラルのある写真家は、現実の材料を使って虚構の戯れをやったりしない。
 現実の中に、人間として引き継いでいくべきもの、商業主義によって、また暴力的な自己顕示欲によって作り出される無数の紛い物の中に埋没して見えにくくなっている物事への敬意とか慎み深さ。自分の都合のためにだけ生きるのではなく、色々な問題を抱えながらも、そこから逃げずに現実に踏みとどまり、祈るような思いで狭い現実の向こうに魂の救いを求めるという、宗教の枠組を超えて、はるかなる昔から人間が続けてきた命の引き受け方がある。そのいじらしいまでの信心。鬼海さんは、その現れを捉えるのが実に見事だ。
 そうした人間の実質とつながっているものの形は、その時々ごとに異なる時代を示しているが、形は違えど、現実と超現実の”あはい”と”揺らぎ”の中にあるという緊張感が通底しており、時代を超えても、人々の心を引きつける。そういうものこそ、人間として引き継いでいくべきものだと言える。
 もちろん、視る側に、それを受け止めるだけの基盤がないと何も伝わらない。だからといって、同時代の大勢に安易に媚びてしまうのではなく、連綿と続く過去と未来のなかにつながる人がいるという信心こそが、誠実な表現の動機となるだろう。
 写真行為は、どんな表現行為よりも、受け身である。
 観るということは、本来、受動的な行為だからだ。
 だからいっそう、表現に誠実さが反映されやすい。
 何を選び取り、選び取った対象の中に何を見いだし、何を引き出そうとするのか。そして、自分の選択や、技術の至らなさによって、対象を損なっていないかどうか、いのちの関係性を歪めていないかという自問の果てしない繰り返し。
 こうした誠意があれば、一日に何枚もシャッターを切れない。
 鬼海さんは、撮影している時間よりも、遙かに長い時間を、視ることと考えることに費やしてきた人だから、自分の言葉を持っている。明らかに鬼海さんの言葉だとわかる言葉を紡げる人だから、一目見れば鬼海さんの写真だとわかる写真が撮れるのだ。
 自分の言葉を育むこともなくカメラを持って街をぶらつきながら何枚もシャッターを切っても、人がそこに在るということの全ての意味と言えるようなものを、一枚の写真を通じて、視るものに手渡すことなどできやしない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



鬼海弘雄さんの新作写真集「Tokyo View」が、完成しました。
詳しくはこちらまで→