第1064回 表現者の仕事の”速さ”について

 

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(撮影:中野正貴

https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3612.htm

  私がこれまで一緒に仕事をした写真家の撮影現場の中で、もっとも”速さ”を感じたのは、中野正貴さんだ。
 私は、中野さんと組んで、いつまでも記憶に残る驚くべき速い仕事を実現したことがある。
それは、漁船などの冷凍技術で世界ナンバーワンのシェアを誇る老舗企業の仕事だった。その会社は、これまで長い歴史の中で、会社案内とか会社を紹介する映像を作ってこなかった。その理由は、冷蔵庫などの消費財と違い、何十年も使う巨大冷凍庫を作る技術はとても繊細で、まさに匠の知恵と経験と技術が必要なため、形式知にすると大事なところが削がれてしまう。だから、暗黙知でそれを共有するという伝統を維持していたからだ。
 しかし会長がかなり高齢となり、暗黙知形式知にせざるを得ないという状況で、経済系の大手出版社や広告代理店に声をかけてコンペをすることになった。そして、風の旅人の縁で、なぜか出版界で異分子の私にも声がかかった。私は、その話がくるまでその会社のことをよく知らなかったが、オリエンテーションの日、本社ビルの一階に飾られていた冷凍設備の心臓部で空気を極限まで圧縮するたスクリューの美しさに目を奪われた。それは、まるで日本刀のような美しさだった。その強烈な印象があったので、会長や常務たちがズラリと並ぶオリエンテーションの席で、本当は会社側から説明を受けるだけの場なのに、スクリューを見て感じたことや、会社の本質をその部分から伝えていくべきだということを熱く語った。そして、10日後くらいに企画案をプレゼンすることになっていたが、その会社の内実もまったく知らずに企画案は作れないので、会社の心臓部にあたる一番大事な工場をロケハンさせてくれとお願いした。
 その強引な依頼がなぜか受け入れられて、私は、写真家の中野正貴さんに声をかけてロケハンのために工場に行った。すると、驚いたことに、工場の一担当者ではなく、常務取締役や工場長が待ち構えていた。万全の状態でロケハンができるよう会長から命じられたそうだ。そして、コンペなのに、すでに仕事は私に発注されることに決まっていたらしい。
 そこからの中野さんが見事だった。広大な工場で、色々な現場に色々な職人さん達がいて、彼らの仕事の邪魔をするわけにはいかない。
 中野さんは、職人の仕事の流れを止めることなく、かといって距離を置くわけでもなく、絶妙な間合いで距離を詰めて、次々と異なる現場を撮影していった。たった1日で、工場のほとんど全てを撮ってしまった。しかも、その写真がよかった。ロケハンのつもりで行った一回の撮影が、本番のものになって、その1日で撮った写真だけで、会社案内の多くのページで使えるものとなった。会社案内は、映像にもなり、国際企業なので、中国語や英語やスペイン語にもなった。 
 私も、若い時に広告会社と仕事をしたことがあるが、撮影の前にロケハンをして撮影カットを絵コンテにして担当者と打ち合わせをしたりと、現場の撮影というのは失敗が許されないから、事前の根回しや準備の時間が膨大にかかる。しかも、大企業となると、各セクションの調整もあって大変な作業だ。たった一回のオリエンと、たった一回のロケハンで、映像の部分は、ほとんどクリアしてしまうというのは、普通はあり得ない。(もちろん、暗黙知形式知にするための文章の部分は、その後、簡単に一回で終わるということにはならなかったが。)
 とにかく、中野さんは、あまりシャッターを切れない8×10の大型フィルムでの撮影も手慣れていて、その準備の速さや、場所決めの速さ、照明の設置や角度決めの速さ、露光の読み取りの速さ、私は、いつもその仕事ぶりを見惚れるように見ていた。
 20代の頃、広告会社の仕事で、ものすごく遅いカメラマンと仕事を組まされたことが何度もあったので、その違いは歴然だった。時間をかければ熟成されるものもあるけれど、鮮度が大事なものは、速さが大事。時間をかければかけるほど濁ってしまって、絶妙なる調和と、遠くなってしまう。
 中野さんの仕事の速さは、一瞬の中に、一挙に同時性を実現してしまう速さにある。つまり、一見、異なるような物が同じ画面のなかで絶妙に均衡を保って存在し、それぞれがそれぞれの持ち味を引き出すような写真が、一瞬にして撮れてしまう。
 そういう同時性を撮るというのは、たまたまその瞬間に立ち会うということではない。異なる物は、それぞれズレた時間の中に存在しているのだけれど、それぞれの動きが重なり合う瞬間があって、中野さんは、その瞬間を読んでいる。つまり、一つのことを凝視しているように見えていても、異なるものの動きも見えていて、それが一つのフレームの中に重なってくるタイミングを計っている。そしてシャッターを切る。
 たとえば職人の写真を撮る時、職人のすばらしい表情や目線だけに注意を払って撮られた良い写真と、職人と道具の動きや火花の動きなど他の動きが絶妙に重なって撮られた写真の素晴らしさとの違いだ。もちろん、時間をかけて何回もシャッターを押していれば、たまたまタイミングが合った写真が撮れることもある。しかし、中野さんは、短い時間の数枚のシャッターだけでそれを実現する。その速さを実現する読みと、対象および周辺物との間合いを心得ているのだろうと思う。

 写真家の仕事の”速さ”といえば、鬼海弘雄さんも、速かった。

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https://kazesaeki.wixsite.com/tokyoview
 鬼海さんは、「Persona」にしても、「Tokyo view」にしても、30年も40年もかけた仕事を続けているから、仕事が遅いなどと思っている人がいたら大間違い。何十年もかけているのは、同じテーマを根気よく追求し、かつ、シャッターを切らない時間が長いだけだからだ。それは、写真に対する鬼海さんの誠実な態度ゆえのことである。
 でも、実際に撮影する時は、とても速い。そして、絶妙である。鬼海さんとは、北星余市高校という風変わりな学校の学校案内の制作で、全国の卒業生を訪ね歩いてインタビューをした時、彼らを撮影してもらった。
 北海道とか京都とか大阪とか東京とか、それぞれ異なる土地の特徴をどのように肖像画に取り入れるのか。
 当然ながら、観光アイコンのようなものを背景に入れたりはしない。
 少し話をして、少し歩いて、場所を決めて、ぱっと撮るのだけれど、撮られた写真の表情と背景が作り出す空気が絶妙で、北の国に来たなあとか、古都に来ているなあという詩情が、抽象的だけれど、なんとなく伝わってくるのが面白い。
 まあ、そんな場所のことはどうでもいいのだけれど、なにか、そういうものを想像させる写真の力がある。
 絵のような写真、とか、写真のような絵という褒め方がある。
 写真のような絵というのは、ただ精密極まりないだけの何の息吹きも感じられない具象画で、絵のような写真というのは、わざとぼかして雰囲気を強調したり、色を装飾的に加工したりの思わせぶりな写真。絵のような写真なら、絵の方が、修練が必要なのですごい。写真のような絵なら、単なる技術のアピールでしかない。
 なので、絵なら絵しかできないこと、写真なら写真にしかできないことを目指した方がいい。
 鬼海弘雄さんの写真や、さきほど書いた中野正貴さんの写真は、写真にしかできない写真。こういう人の仕事を尊敬して目指している若い写真家や写真家志望の人は、人柄も誠実で、いい仕事をしていることが多い。たぶん、自分のことをアーティストなどと言わない。ただ黙々と、自分が大切だと思うことをやり続けようとする仕事人だ。

 そうでないのは、なんか、表現者とかアーティストぶって、そのアウトプットも、その場限りの付け焼き刃的な印象があり、ただカッコつけているだけだなあと感じるケースが多い。

 そして、絵画の領域で、”速さ”の重要さを体現しているのが、阿部智幸さんだ。

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(念のために、これは写真ではなく、水彩画です。作:阿部智幸)

https://www.abety-art.com/exhibition-1/

 阿部さんの水彩画の魅力は、優れたテクニックによる風景の再現性にあることは間違いないのだけれど、単に精密に描けているというより、絵の中に流れている時間、移ろっていく時間が感じられるように描かれているところにあると思う。そこに単なる写実を超えた詩情がある。
 たぶん、阿部さんにも画家として絵にしようと決める瞬間があるのだろうけれど、その瞬間は、はかなく揺れ動くような瞬間が多いように感じられる。同じ場所でも、光の加減で、次の瞬間、二度と同じ瞬間がない瞬間。
 阿部さんは、これだけの精密な絵を、あまり時間をかけずに描き切ってしまうという。水彩画の特質として、色が混ざると濁っていくので。
 その速さが、時間のはかなさを表現するうえで、重要なファクターなのだと思う。
 そして、この心得は、昨日、話をした前田英樹さんが説く新陰流の「剣の法」にも通じる気がする。
 この場合の”速さ”というのは、100mを何秒で走るとか、西部劇でどちらが速く拳銃を抜くかといった、強引な力によって相手に勝って自らを誇るという類の、自分のすごさを主張し、かつ、相手のレベルやその時のコンディションの影響を受けて負ける可能性があるという単純な競争原理の中の速い、遅いの問題ではない。
 前田さんの説明では、新陰流の原理は、相手の動きを「陽」とし、自分の動きを、相手のなかに入り込む「陰」とし、「陽」の動きが、「陰」の顕れを引き出すという自然の極意とともにある。そして二つが連動して一挙になされるのだけれど、その二つの動きの間にわずかなずれを作り、その接点において、自然に、なんの力みも歪みもなく、ただちに次の動きに変化できる状態で、相手を捉える。そういう太刀筋を会得するための稽古がある。
 その稽古を繰り返し習えば、そうした原理のなかに、いつか我知らず参入する。

 ということである。
 晩年の宮本武蔵の描いた絵にも、これと同じ速さがある。
 その速さは、徹底して反発の原理を消した間合いから生じ、一挙に異なるものを融合させる、真っ直ぐの動きの賜物である。
 二つのあいだの対立と摩擦を煽るような表現が多い世の中だが、反発の原理から解かれて一つになる至高の法を、かつての日本の求道者たち
は会得していた。その法を取り戻す努力を重ねている表現者にこそ、未来を託したい。