30年にわたって森永純が撮り続けた波、その生命の律動

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 森永純さんは、ユージンスミスが号泣したと言われるドブ川の写真集「河 累影」(邑元社)を出した後、30年以上の長きにわたり、ひたすら波の写真を撮り続けている。
 1970年代のはじめ、日本の写真界を牽引していながら、森永純さんは、写真集をこれまでに『河 累影」(邑元社)の一冊しか世に出していない。
 「河 累影」は伝説的な写真集となって、今も根強いファンがいるが、森永さんは、写真集を作ることや、写真を発表することを主目的とせず、自分の内的必然性において、ひたすら写真を撮り続ける。誰かに見てもらいたいなどという媚びた欲求は持っていないのだ。
 そのストイックなまでの写真がユージンスミスの心を直撃し、男泣きしたと、ユージンスミス自身が後に語っている。
 ユージンスミスは、森永さんが撮ったドブ川の写真に、原爆のイメージを見いだしていた。
 森永さんは、長崎県出身で、原爆によって、家と父と姉を失っている。長崎に原爆が投下された時、森永さんは、佐賀県疎開していた。
 戦争が終わって、自宅に戻ってきた森永さん。そこには、夏の強い日差しに輝く白い空間だけがあった、悲しみとか怒りといった感情は湧いてこなかった言う。
 森永さんの戦後は、その白い空虚から始まった。だから、森永さんは、1960年代のはじめ、ヘドロで悪臭漂う東京のドブ川の写真を狂ったように撮影し続けていた時、原爆のことはまったく考えていなかった。ただひたすら、自分の内的衝動にしたがって、ヘドロの川面すれすれのところまで顔を近づけて撮影していた。
 そして、森永さんは、そのヘドロの中に、生物が生きていることを発見していた。
 森永さんは、自分が撮ったドブ川の写真と、原爆を結びつけられることを嫌う。原爆を意識して撮ったことなんか一度もないからだ。しかし、ユージンスミスは、その写真の中に、原爆の影を見た。森永純さんが長崎出身だということを知らずに、森永さんと原爆の関係を見抜いていた。ドブ川の得体の知れない強烈なイメージが、彼の胸を貫き、泣かざるを得なかったのだ。
 そんな森永さんは、東京のドブ川を撮り切った後、ひたすら波の写真を撮り続けてきた。戦後、白い空虚から歩みを始めた森永さんは、戦後の日本社会に次々と建造されていく物質世界が、全て蜃気楼に見えていたのだろうか。そうした世相的なことにまったく関心を持たず、ドブ川を撮り、その後に波を撮り続けて、写真家人生をまっとうしてきた。
 森永さんが撮った波の写真は、巷でよく見られる癒し系の波写真とはまったく異なっており、それはまさしく森羅万象の根本的な律動。その律動は、当然ながら、命あるわれわれの中に息づいている生のリズムでもある。
 ヘドロだらけのドブ川の中に微細な生物を見いだしていた森永純さんは、波を通して、生と死の本質的な様相を嗅ぎ取っていたのだろうか。生が有で死が無なのではなく、もしかしたら、生死は波の起伏にすぎないかもしれない。
 もちろん、そんな分別を持って撮影していたわけではないだろうが、森永さんは、船に乗って波を見つめ続けている時、意識が溶け消え、恍惚とした境地のまま、何度も波の中に身を投じてしまいそうになって、とても危険だったと述懐していた。
 
 私が、風の旅人の第35号の特集で、森永さんの波の写真を紹介したいと申し出た時、森永さんは、30年も撮り続けていながら、まだ完成していないからと拒んだ。そこをなんとかお願いして、16ページほど紹介させていただいた。
 その時、森永さんのイメージの中では、あと4つほど波の相が必要だということだった。それが撮れるまで、波の仕事は終わらないと言っていた。
 波というのは、それなりに絵になるので、波の写真を撮って写真集にしている人はたくさんいる。あまり時間をかけることなく、同じ場所に立って、ザブンザブンと押し寄せてくる波を待って撮っている写真を作品だと言って発表している人もいる。そういう写真集は、すぐに飽きてしまう。人間が波を自分の都合の良いように切り取ったところで、それは波ではなく、波のごときデザインでしかない。
 森永さんは、かつてドブ川に取り憑かれていたように、波の複雑精妙さに取り憑かれて、30年以上も撮り続けている。森永さんは、何度見ても、波の中に新しい魅力を発見して飽きることがない。そういう人が撮った波の写真もまた、飽きることのない魅力がある。

 その写真は、刻々と変容していく波が見せる瞬間ごとの美しい相ではあるが、撮影によって波の動きを切断したという感じはせず、それ以前の動きと、それ以降の動きをつなぐ絶妙な均衡がとらえられていると感じる。それゆえ、写真という静止空間にもかかわらず、波全体および各部分がうごめき、波そのものの生が持続していることが伝わってくる。波は、それ以前の力を受けて次へと伝えながら絶え間なく変化し続けているが、どの一瞬を切り取っても同じものはない。波の一つ一つは常に新しい形を見せる。しかし、全体として見れば、いつまでも変わらない波ならではの摂理がある。繰り返し繰り返し、これまでも、そしてこれからも、その時ごとの必然性のなかで、なるべくしてなるように全体と部分を整えながら、次なる動きを生みだしている。
 
 波のリズムというのは、間違いなく記憶の深いところに働きかける力がある。そして、波そのものにこれだけ深く自己投入して撮影を続けてきた人は、森永さんを置いて、他にいない。