写真と「美」と世界

エルンスト・ハースが絶賛した水越武さんの写真(解像度が低いため、氷の先端部分から水滴の氷が成長していく様子が伝わらないのが残念)→

 北海道の水越武さんの所に行ったのは、「風の旅人」のVol.18(2月1日発行)で、「自然の摂理」をテーマに特集を組みたいと考えていて、そのテーマに関する写真では、水越さんほど適任者はいないからだ。

 水越武さんは、動物や昆虫を除く自然写真の分野で世界的に通用する唯一の日本人写真家ではないかと思う。最近でもロシアや中国で写真展が開かれている。

 日本の自然写真は、色彩は明るく、いわゆる「絵のような」と喩えられるような、ぱっと見だけが綺麗なものが多いが、そういうものは、見ているとすぐに飽きてしまう。その派手な色をとってしまうと、何も残らない。

 しかし実際の自然というものは、見ていて簡単に飽きるものではない。

 自然は見れば見るほど引き込まれるものだ。また、色は、見る者を惑わせるためだけにあるかのようで、色を殺ぎ落としたところに、自然の企図というか本心というか「理」が透けて見えるように感じられることがある。しかし、「理」だけでなく「企図」も含めて自然なのであって、その両方が感じられなければ、自然を表現していることにならないのではないかと思う。

 水越さんの写真は、その両方が見えている。

 水越さんの写真は、一般の自然写真家に比べて、暗い。その暗さの中に、「美」が僅かに顔を覗かして煌めき、その「美」の波長が周りに広がっていく。そのように「美」が伝番していく世界は、狭いフレームに区切られているものの、無限のコスモスとして在る。

 「美」という言葉は、いろいろな局面で使われて何を「美」と言うか定義は難しいが、「美」の力というか本来の性質というのは、僅かに顔を覗かしたところから次々と連鎖反応を引き起こしてしていき、限られた時空間を無限のコスモスに変えていくものではないか。そうした力を秘めたものを「美」と呼ぶべきではないか。

 表面的な派手さや地味さ、明るさや暗さの違いにとらわれると、見落としてしまう貴重な「美」が、この社会のあちらこちらにもキラリと顔を覗かせている。

 そして、水越さんのカラー写真は、カラーの状態で既にモノクロだと私は感じているのだが、これらの写真を、「自然の摂理」というテーマで括り、モノクロで表現してみようというのが、今回の打ち合わせの趣旨だ。

 私の個人的な考えだが、優れたカラー写真は、写真で停止されたフレームのなかに、動きが感じられる。ダイナミックな動きもあれば、繊細に震えるような動きもある。そして、その写真の色を脱色してモノクロ化すると、時間が停止して、主題が鮮明に浮き上がってきて、一瞬のなかに永遠がある状態になっていく。

 それと比べて、優れたモノクロ写真は、写真の力で時間が止められ、主題が鮮明に浮き上がって、一瞬のなかに永遠がある。そして、その写真に着色してカラー化していくと、絵が動き出す。

 よくない写真は、モノクロ化されても主題が浮き上がらないし、カラー化しても、画面が動かず、小さく震えることすらない。固定して死んでいる。

 モノクロ写真で気をつけなくてはいけないのは、モノクロにすると、なんだか意味深になって、それだけで作品っぽく勘違いしてしまうことだ。

 それはおそらく、心の機微がモノクロ的だからだと思う。人間の「気分」というのは赤か青か緑といった色彩で表現できるが、「人間の感じ方の深度」は、黒から白にかけての階調や濃淡で掌握される。だから、モノクロにするだけで、感じ方の機微があるように見えて、なんとなく意味深になってしまう。

 水越武さんが撮った35mmポジは、迂闊に取り扱うと、「美」がスルリと逃げてしまう。こちらも相当にテンションをあげて向き合わなければならない。まさに真剣勝負。ライトボックスの上でレンズで覗き込み、息を詰め、目の力を最大限に高めて、細部を掬い取ることが大事だ。小さなポジフィルムの細部に「神」は宿っている。写真家は、その細部を見落としていない。「神」と「神」は響き合って、大きな力になる。写真家が掬い上げた細部の「神」を、編集者である私が見落としてしまうと、元も子もない。

 だから、もの凄く疲れる。私が写真を見て、「へとへとに疲れた」と言うと、水越さんは、微笑みながら「見る方も、見られる方も疲れるんです」と言って、別室のベッドに横になりに行った。 水越さんがいない状態で、私なりにあれこれ苦心しながら、流れをつくっていった。最終的にセレクトして組んだ写真を、水越さんは、「画期的」と言った。

 これらの35mmフィルムが、誌面の上で大きく拡大された時のことをイメージするだけで、とてもワクワクする。まさに「画期的」なものになるだろう。見るべき人、すなわち、そうした心の備えができている人が見れば、きっと、世界の見え方が変わる。心の備えができていない人にとっては、どこにもハウツーの示されていないこれらの写真は、実生活でまるで役に立たないものとして片づけられるかもしれない。

 それでも、どんな人でも処世的な分別がまったくない無心の状態で見れば、これらの写真は、見る人に何かしらの気づきを与える力がある。役に立つか立たないかではなく、綺麗かどうかということももはやどうでもよくなり、写真を通して、「目の威力」(呪力と言ってもいい)を再認識させる何ものかの力とだけ向き合うことになる。おそらく、言葉になるかならないかの「凄い」という言葉だけが、身体から絞り出されるだろう。