第956回  主義主張の正しさよりも、伝え方の正しさ。


 「アルビノの木」という映画が、7月16日から29日まで、テアトル新宿のレイトショーで、緊急に、限定に、公開される。
 http://www.albinonoki.com/
 金子雅和監督(38歳)の自主制作作品である。昨今、映画産業の衰退は著しい。テレビ局や広告代理店がしきる娯楽映画が自己宣伝効果で客を呼び寄せてはいるものの、スマホゲームなどに押されて、劣勢である。
 そうした状況下で、自主制作の映画を作るというのは、一攫千金を狙うわけでもなく、相当な志と覚悟が必要になるだろう。
 ただ、カメラをはじめ映像制作の為の機器が手軽に安価に扱えるということもあり、自主制作で映画づくりをしている人もけっこういて、時々、そういう方々からDVDを送られ、誌面での宣伝をお願いされることがあった。でも、99%、最初の数分見るだけでガッカリさせられ、続けて見る気になれない。安易な手段による単なる自己表現にすぎなかったり、問題意識さえ持っていれば立派なことであるかのように観念に走り、表現としてあまりにも稚拙なものが多いのだ。
 私は、この地上の現実において、”正しさ”を固定することなどできないと思う。そして、いくら、政治や社会などに対して問題意識を持っていたとしても、自分の生身の生活において、自分が批判している対象に依存してしまっているケースも多い。
 理想社会の実現を主張して、その実現のための行動を正当化して多くの人を犠牲にしてきた人類の歴史を振り返れば、観念としての正しさよりも、実践の仕方に配慮しなければならないことは明らかだ。
 表現に限らず、どんな活動も、自らの正しさの正当化のために傲慢になっていると感じられるものは信用できない。また、正しさの為に動いている自分に酔いしれているようなものは、行動も、表現も、薄気味悪い。
 だからといって、表現することが無意味であるということではない。
 正しいか正しくないかというのは、答えが正しいかそうでないかではなく、伝え方として正しいかどうかの方が、遙かに大事なのだ。
 ならば伝え方の正しさというのは、どういうことだろうか。
 色々あるだろうが、一つ大事なことは、伝えるための方法に対して、どれだけ心が尽くされているかではないだろうか。 
 正しいことを伝える為だからといって、それを伝える道具や方法に対して心を尽くさず、雑に取り扱っていると感じられる人は、自分が正しいと信じている対象に対してさえ、心を尽くさず、あまり深く考えることもなく、雑に扱っているケースが多い。その対象に対する敬意などなくて、対象を自分のアピールのために利用しているだけなのだ。そういう人は、愛とか平和とか正義という言葉を安易に大きな声で扱うことに、何のためらいも羞恥も見せない。
 その対象に対して本当に心を尽くしている人は、その対象を伝えるための道具や方法に対しても、心を尽くし、最善であるかどうか深く吟味し、考慮を積み重ねている。慎重に取り扱わないと、対象が大きく損なわれてしまうからだ。本当にその対象を愛し、敬意があるのならば、自分の手で対象が損なわれてしまうことほど耐えがたいものはない。だから、言葉で伝えている人なら言葉を大切にしているし、映像で伝える人なら映像を大切にしている。
 その人が信じられるかどうかは、そうした表現の道具や方法に対して、十分に心が尽くされているかどうかによる。言葉で伝えているのに言葉の危うさを意識することも考えることもなく、映像で伝えているのに映像の特性を深く考えていない人など論外だ。
 いくら憲法改正反対、反戦、環境破壊反対、捕鯨反対などと立派なスローガンを掲げていたとしても、その伝え方があまりにも雑で、心がこもっていると感じられないものは、そうすることの大切さを、敬虔に厳粛に感じているわけではないからだろう。
 派手なパフォーマンスで自分を目立たせることができれば自分の目的は達成され、あとのめんどうくさいことは誰かがやってくれ、というのが本音だろう。そういう不誠実な人間をヒーローに祭り上げるのが大衆メディアの体質だが、大衆メディアもまた、表現の道具や方法に対して心を尽くさず、変わり身の早い不誠実の代表だから、そういう手っ取り早いヒーローづくりを繰り返すだけなのだ。
 人の誠実さは、地道に、おそるおそる続けていることで、あとになって評価される。
 「おそるおそる」とか「畏れおおくも」といった、畏れの感覚はとても大事だと思う。
 その感覚こそが、表現する者の、表現に対する誠実だと思う。
 文明の利器が発達して便利に使いこなせる時代、そこそこ上手に作ることは誰にでもできるが、誠実に作ることは、なおさら難しくなっている。
 誠実さの欠片もない上手な表現など、見れば見るほど、空虚がつのる。
 空虚というのは、畏れを失った人間の心の空洞だ。
 「アルビノの木」という映画は、決してうまく作られた映画ではないが、畏れという人間にとって最も大事な良心の扉を、おぼつかない手で恐る恐るノックする誠実な映画だと思う。
 このおぼつかなさ、心許なさこそが、現代の誠実だろう。わかっているつもりになって声高に正しさを主張するよりも、本当のところはわからないということを自覚したうえで、それでもやはりおかしいのではないかと考え続ける姿勢からしか、自分自身も、その延長線上にある世界も、変わっていかないと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



鬼海弘雄さんの新作写真集「Tokyo View」が、完成しました。
詳しくはこちらまで→