第959回 もののあはれを知る二つの東京(第3回)

 (第2回から続く)
 技術革新がどれだけ進もうとも、基本的に、人間と”もの”との関係は昔からそんなに変わっていない。変わっているのは主に観念の部分であり、身体という限りある”もの”とともに在る人間は、これまでも、そしてこれからも、”もの”との関係を抜きに生きていけない。
 具体的には、ものを食べて、ものを着て、ものに触れて、ものにぶつからないように避けて、ものを見て、ものを聞いて、もののにおいを嗅いで、味わって、それらの感覚の中に生きることの喜びや辛さを大いに感じて、それを共有したり乗り越えるために表現して、生きていく。
 人間が築き上げてきた文化というものは、そうした”もの”と”もの”との関わり合いの微妙な”あや”(文)を、姿形を変えながら(化)、伝えてきたものだ。
 微妙な”あや”は、少しタイミングが異なったり、ごく僅かな条件設定を変えるだけで、まったく別の結果になってしまう。だから、数値や論理で固定することなどできやしない。
 「文明」というのは、微妙なあや(文)さえも、公明正大に、(明)らかな形で固定しようという試みであった。言っていることは正しいけれど、何かしっくりこない、そのしっくりこないものをうまく説明できない、にもかかわらず、説明できないものは存在しないに等しいという傲慢さが、そこにあった。
 それに対して文化というのは、微妙な”あや”(文)を、固定させることのない方法で、様々な含みとともに理解し、伝えようという試みであった。
 話は飛ぶが、最近、公開された『ハドソン川の奇跡』(クリント・イーストウッド監督)という映画は、かつてのハリウッド映画のようにおおざっぱな娯楽スペクタクルに走らず、上に述べたような”文明”の落とし穴に、丁寧に焦点をあてている。 
 それは、この映画監督が一貫して持ち続けている”リアル”を追求する精神から生まれている。
 彼は、巨額のお金を投じた大作で話題をさらって賞を狙い全世界的な興行を成功させるという映画作りをやってこなかった。
 見た目の派手さ、賑々しさによって失われるものの大きさを知り抜いているからだろう。また、筋書き通りに話を展開することも嫌う。起こったことではなく、起こらなかったこと、ものごとの裏の裏を凝視していかないと、リアルはわからないし、伝わらないからだ。
 このたびの映画で主演をつとめたトムハンクスは、「時々、監督は撮影をカットしない。ずっとカメラを回し続けるんだ。だから、その(キャラクターの)振る舞いがどういったもので、自分がしていることについてちゃんとアイデアを持っていないといけない」と言っている。
 役者が、「演じていない、だから写っていない」と思っているところも撮られている。真実は、誰もが意識していないところ、思わぬところに写り込む。イーストウッド監督は、意識したり計算していないからこそ垣間見えるものが、リアルの追求に欠かせないという意識を強く持っているのだろう。
 この『ハドソン川の奇跡』の撮影のため、イーストウッド監督は、本物のエアバスを購入し、救助ボートも実際の救助に使用されたものを使い、オペレーターも同じスタッフ、救助隊やボランティア、警察官、ニュースキャスターやパイロットなど、救出に携わった当時の関係者を本人役で多数出演させたらしい。
 関係者を出演させて当時の再現を狙うという単純な魂胆ではない筈だ。当人達が意識していないためにインタビューなどで言語化されていないようなことでも、潜在的に記憶していることが多くある。そうした潜在的な記憶が、振る舞いに現れることもある。リアルの追求のためには、潜在的な記憶を排除するわけにはいかない。
 ネタバレになってしまうけれど、事故の再現のために国家運輸安全委員会がコンピューターを使ってシミュレーション実験を行うシーンがある。その際、必要と思われるデータがインプットされる。そして結果が出て、それを動かぬ証拠として突きつけ、機長の判断ミスにしようとする。
 それに対する機長の抗弁内容は、ここでは述べないが、現代社会および未来社会のありとあらゆる局面で、肝に銘じておかなければならない言葉だ。
 こうした社会の中の出来事に限らず、この宇宙を成り立たせる原理について科学者が世紀の大発見と大騒ぎしても、ほんの小さな要素がデータにくわわるだけで、結果は、まったく正反対になってしまうこともある。
 IoT(物のインターネット)の普及により、物の動きが精密にデータ化され、人工知能によって解析され、フィードバックされる時代がもう目の前に来ているが、データ化しずらいものの取り扱われ方によって、結果はまったく別のものになる。
 『ハドソン川の奇跡』のように、優れた表現行為というのは、論理ではすくいきれないものの大切さを伝えて、人間の認識を修正する力がある。
 表現行為が、そうした役割を果たしていかなければ、いったい何がそれを伝えていくのか。これからの時代において、リアルの追求を、世の風潮に流されることなく、自分ひとりが頑張ったところで何になると諦めたり妥協したり迎合したりすることなく、孤高に実践し続けている表現者こそが、芸術家と言える。
 周りの評判を気にかけ、周りと角が立たないように「それもありですね、いろいろなあっていいと思います」等と卑屈にかわし、人気取りにかまけていると、ますますリアルからかけ離れていく。
 確かに何が正しいか判断しずらい時代ではある。
 アウシュビッツも宗教的原理主義の闘いも、テロリストのリーダも、原爆投下の判断を下した政治家も、それを実行する者達は、正しい論理に基づいて行っているつもりになっている。それらのリーダー達は、論理力に優れた頭のいい人達であり、論理社会の成功者だ。
 その共通する欠点は、論理からこぼれ落ちてしまう大切な何かに疎いということ、もしくは気付いていても、それを重んじないということ。
 数字や論理に対する意識は敏感だが、具体的なものを見ていない。だから、具体的なものに対する敬い、畏れ、愛しみ、惑い、慈しみ、謝り、憂い、哀れみという感覚が薄れている。その結果としての、観念の暴走であり、残虐行為なのだ。
 こうした危険性は、政治家だけの問題ではない。 
 人の死や自然破壊が数字に置き換えられ、ものの価値が、販売数、人気投票、既成権威によるお墨付きなどで決められるなど、具体的なものに対する感覚を弱め、情報操作のしやすい記号的側面だけを見てわかったつもりになっていると、知らず知らず、情報操作によって自らの価値判断のセンサーを狂わされてしまう。
 政治家を選ぶ多くの人々がそうなっていくと、ワンフレーズ・ポリティックスのような単純な煽動に引っかかりやすくなる。そして、”国民の支持のもと”という論理を振りかざした悪政が安易に執り行われることとなる。
 だから、人々に間接的に働きかけていく可能性のある表現者は、「いろいろあってかまわない」という逃げ道を安易に作らず、毅然として、何が大切か、何が欺瞞かを示して欲しい。表現者は、物事に対する価値判断のセンサーとして期待されているのだから。
 (第4回に続く)
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