写真と他者とエピソード

 写真の魅力は、「一瞬を切り取ること」とよく言われるけれど、私はこのことに対して、最近、疑問を感じている。

 自分本位に対象を切り取るという横暴に対して、もう少し慎重に考えなければならないのではないかと思っている。パパラッチは例外なのではなく、写真の強みである「一瞬を切り取ること」の上に胡座をかいた行為の延長にすぎないだろう。

 写真は、もっとも簡単に対象を切り取りやすい表現行為だから、対象にしっかりと向き合う努力を放棄して、対象を、自分のエゴ、自己陶酔、自己主張のために安易に利用しがちであり、現実にそうなっていることが多い。

 今日の多くの人々が、人生を大きく左右する運命的な出会いを待望するようなところがあるのは、「スクープ」など「決定的瞬間!!」だけで全てを評価していく傾向にある今日のメディアの影響だろうか。 

 写真の好き嫌いは、人それぞれである。自己陶酔的な傾向が強い人は、自己陶酔的な傾向の強い写真に感応する。

 私は、「風の旅人」を作るにあたり、そのような個人的な嗜好に従って写真を選択する気持ちはないし、人の嗜好も気にかけない。

 あるのはただ、写真だから可能な役割を、写真に期待する気持ちだけだ。

 人間のつくり出すどんなものも、悪性と良性の側面があって、写真にかぎっていえば、「一瞬を切り取ること」というのは、その行為と、その行為の影響を受ける感受性が、今日の人間のメンタリティを悪い方向に引っ張っているのではないかと思うことが多い。

 私が写真に求めるのは、「一瞬を切り取ること」を超えたところにあるものだ。

 「風の旅人」を制作するにあたって、見開きで20ページの展開に耐えられる写真かどうかというのが、私の選択の大きなポイントになっている。

 1ページずつめくっていく「風の旅人」の20ページというのは、単なる物理的なスペースではなく、一つの時空だ。夜空を彩るオーロラなどの綺麗なイメージ写真は、一、二枚見るだけならウットリできるかもしれないが、同じようなものが数ページ続くと飽きてしまう。

 (ちなみに、オーロラをなぜイメージ写真と言うかというと、肉眼でのオーロラの見え方は、写真に写っているものと、色味などを含めて大きく違うからだ。色彩豊かなオーロラ写真は、長時間露光によってのみ浮き出てくる色だ。実際のオーロラを見る時の感動というのは、写真で感じられるようなウットリとした美しさというより、天空に広がる巨大な”光”のヴェールに包まれるような感覚であって、”色”に対する分別よりも、その”光”体験が圧巻なのだ。それゆえ、寒さを避けて室内施設で”観測”するオーロラには、その臨場感がまったくない。長時間露光で撮影したオーロラ写真のイメージも、少し違うという気がする。だから、そうしたイメージ写真を数枚だけ使い、そのイメージ力によって他の何かの力を引き出す場合はいいのだが、オーロラ写真がメインになってしまうと、それはただ「写真作品づくり」に没頭した自己満足的な愉悦だと感じてしまう。)

 それで、「風の旅人」の20ページの時空に耐えうる写真というのは、植物であれ何であれ、希少種とか珍しい現象の決定的瞬間を追っかけているものではない。

 そして、自己陶酔的な嫌みや臭みも感じられない。あるのはただ、その対象である「他者」に対する切実さだ。切実さは人それぞれで、親愛の場合もあるし、憂慮の場合もある。大事なことは、自分を覗き込む眼差しを対象に投影して自分の鏡にしてしまう写真行為ではなく、自分を捨てて、「他者」に深くコミットしているものだ。その潔さが、「他者」の存在の厳粛さを引き出している。そうすることによって、無数の「他者」が、それぞれの厳粛さをまといながら見る者の前に、さながら万華鏡世界のように立ち上がってくる。その多彩さと厚みがあるから、何度見ても飽きることがない。

 対象を自分の鏡にしてしまっている写真は、その多彩さと厚みを実現できない。どれを見ても、似たような雰囲気になってしまう。だから、数ページで飽きてしまう。

 写真にかぎらず、自分にまつわるエピソードばかり語り続けられると、耐えられなくなる。知りたいことは、その人のエピソードではなく、その人が見たものの豊かさや厳粛さだ。言うに言われぬもの写真行為を通して必死になって伝えようとするスタンスこそが、人の心に響き続ける。ただ綺麗なだけの写真ではなく、凄い写真というのは、そういうものだ。

 ナルシスティックで綺麗なだけの自己表現は、数ページの時空や、大きな展示場のスペースに耐えることができない。深みのない飽きやすいものが世に溢れ、そうした矮小な現象と出会う機会ばかりが創出される現代社会において、人々は、その現象だけが「世界」の実態であるかのように錯覚させられている。

 そうした今日の表現状況のなか、 写真の使命は、「一瞬を切り取ること」ではなく、無数の「他者」の存在の厳粛さや、その厚みをしっかりと捉え、この世界が万華鏡のように豊かに構成されているという事実を、具体的に示すことだろうと私は思っている。

 ちなみに、今でも伝説的に人気のある星野道夫さんに憧れてアラスカなどの写真を撮っている人の写真を見る機会が、最近では少なくなったが、創刊の頃からしばらく多くあった。

 私は星野さんの事務所で、膨大な写真のほとんど全てに目を通したが、その多彩さと厚みに圧倒された。何をどう組んでも、充分な構成ができる。巷に出ている星野さんの写真は、どちらかというと、甘く優しい雰囲気のなかで編集されているものが多いが、実際には、とても峻烈で厳かで力強い写真が多い。

 星野道夫さんが書く文章の多くは独白のようなものだ。だけどそれは、「他者」と深く出会った後に、部屋のなかで自分と向き合い、自分の意識にフィードバックしていくために綴られるものであり、写真を撮る時には、「他者」に対する無意識の眼差しだけがある。

 言葉によって意識と無意識を橋渡しながら、「他者」に対する眼差しを深めていく。そのように深く「他者」にコミットするからこそ、無意識に美しい写真が撮れる。また、振り子のように自分の奥深くを内省する意識が美しい文章に結実する。

 意識と無意識、自分と他者のあいだを行き来する振り子の振幅こそが、彼の写真や文章と出会う人の琴線を揺さぶるのだろう。

 しかし、星野さんのファンには、旅する星野道夫の言葉だけに酔ってしまい、写真表現を試みようとする人も多い。

 その人たちの写真の多くは、自分の言葉と狭いところで自己充足的に溶けあってしまい、星野さんの写真のように、自分という呪縛から解き放たれた「広大な宇宙」になっていないことが多い。

 星野さんが撮り続けた写真の広大な宇宙のなかから、時流に媚びた可愛い部分だけを抜き出して編集して見せることを欲する媒体が多く、そうした媒体を見て写真家を目指す人は、そうした撮り方をすれば星野さんのようになれると錯覚してしまうのかもしれないけれど、星野さんの写真の中に垣間見える優しさは、膨大な厳粛さの厚みに下支えされたものなのだ。

 星野さんの影響を受けながら、彼の真似ではなく自分に固有の表現を求める場合でも、星野さんが「他者」に注いだ眼差しの深さと厳しさに思い至らないかぎり、「自分に固有の表現」ではなく、「自分のエピソードに酔っただけのもの」になってしまう可能性が高い。

 しかし、現代社会には、作品そのものよりもエピソードに惹かれる人が多く、それが人気を博して成功したりするものだから、何が優れているのか、わけがわからなくなる。

 エピソードが好まれるのは、エピソードが「言葉」であり、わかりやすく納得感が得られやすいからだろう。

 わかりにくく納得感が得られにくいものの間で宙ぶらりんになることの切なさに、現代の私たちは耐性がなくなっている。

 しかし、そうした切なさこそが、「他者」と向き合うことの本質なのだ。星野道夫さんは、写真を通して混沌たる「他者」と向き合う切なさを、少しでも整理して和らげていくために、言葉で自問し続けていた。宙ぶらりんのなかで耐える為に、言葉が必要だった。その言葉は、自分のエピソードを人に自慢するためのものではなかったのだ。