刻と哀

 哀しいものは美しく、美しいものは哀しい。
 人は誰でも自らの心のなかに時を刻んでいくが、その刻みは、他者や物事との関係で変化していく。
 この地球上には様々なことが起こり、生きているあいだに様々な出会いがあるが、それらの一つ一つが自分のなかにどう刻まれるかは、どう関係するかによって変わってくるだろう。
 長さではなく、ものごとの刻まれ方が、人生の固有性を表す。表現もまた、その形に表現せざるを得ない”必然性”、すなわち対象と自分との関わりの深さが、固有性につながり、その固有性こそが表現の強さだろう。
 単に見た目の変化だけで差別化をはかるものではなく、必然に裏打ちされた固有性のあるものが人の心に深く刻まれ、生きていく。

 風の旅人 第33号 「刻と哀」が、発売された。

 今月号の巻頭で紹介するエドワード・バーティンスキーさんが撮影した写真は、中国にかぎらず、現在の世界を牛耳る価値観が浮き彫りになっている。
 彼の写真に写っているものは全て、人間が目的を持って周到に計画し、緻密に作りあげたものの集積であり、何一つ気まぐれな産物はない。どんなに小さな部品でさえ、それを作る目的のためだけの機械を用意周到に設計・製造するという人工のうえに人工が無限に連なった巨大なメカニズムの産物だ。結果として、そこに生じる混沌とした現象は、もはや少数の人間では制御不可能な怪物になっている。その緻密さと執念と凄まじい現象を呼び起こす人間意識の際限の無さが、坩堝のように私たちの現実を覆い尽くし、その内側をじわじわと蝕み、荒廃させてゆく。
 次に紹介するのは、山下隆博さんが撮影したインドの綿花栽培農家の写真。そこに漂う哀しみは、一家の主の自殺が関わっている。その自殺をもたらすものは、アメリカなど先進諸国の狡猾で欺瞞に満ちた仕掛けだ。
 今日の社会において、ビジネスの仕掛けは、美しく立派な言葉と結びついている。特定の価値観やシステムの普及によって一番メリットがあるのは、それを知り尽くし、使いこなし、その分野で先行して既得権を築いている者だ。さらに、そうした仕掛けをつくる者に媚びて、時代のヒーローのように崇めるメディアが多数存在する。
 恐ろしいのは、そのシステムに依存しなければ生きていけないような、がんじがらめの仕組みを、美しい言葉に目隠しされて不用心に受け容れてしまうことだ。「物」だけでなく、「システム」と、「正当化する論理」と、「その恩恵を受ける特権階級」(多くの文化人も含まれる)が強靱に結びついて網を広げていくので、その呪縛から逃れることは簡単なことではない。

 三番目に紹介する江成常夫さんは、リゾート化された太平洋の島々の戦地を訪れ、撮影し続けてきた。戦死者の死体とか破壊されたビルディングで戦争の悲惨さを訴えるという表層的な意識的作業を江成さんは行わない。
 経済の悪化、失業、憎悪、フラストレーション、疑心暗鬼、過剰警戒、自惚れなど、戦争の要因は深すぎる。特定の悪人を仕立て上げて片づけることもまた、人間意識による自己都合的な解釈の一つだが、戦争という事態もまた、自分に都合よく物事を解釈していく意識の複合的な産物に他ならないことを自覚しておく必要がある。
 江成さんが撮っているものは、「ドラマ仕立て」の「戦争の絵」ではなく、「戦争が刻んだもの」であり、それは、人間の想像力と記憶に働きかけ、”哀”を呼び起こす祈りの行為だ。
 この写真家にとって、”哀”こそが、真の”アイ”なのだろう。”愛”は、自己を満たすための”所有”や”略奪”を正当化する衝動につながりやすいが、”哀”は、自らの掌中に収まらない”痛み”や、意識的操作で削除できない”疼き”とつながっている。

 今回の「風の旅人」に出るまで日本の雑誌で自分にとって大切な作品の発表をせず、海外で写真集や展覧会を中心に表現世界をつくりあげ高い評価を得てきた古屋誠一さんは、1985年に自死した妻クリスティーネさんの生前の写真を、彼女の死後、オーストリアの田舎で小さな畑を耕しながら、繰り返し編み続けている。
 近代社会というのは、人間の意識がつくりあげたものだが、それは、集団を一つにするための規格や標準の牢獄でもある。牢獄であることを意識すると生きづらいから、その意識を鈍磨させる麻薬が必要になる。その発展形が現代の消費文明だろう。
 メディアから繰り出されるありとあらゆる広告、娯楽、そして他者の不幸をあけすけに伝えるニュースさえも、自分の意識と向き合う苦痛から逃れる現代の麻薬と言える。
 クリスティーネさんの真っ直ぐな目は、そのように意識を鈍麻させて他者だけでなく自分さえ欺こうとする卑小な気持ちに鋭く突き刺さる。
 規格・標準化された社会の多くの側面は、記号の積み重ねで成立している。それは、事物そのものより言葉で定義されて処理される世界だ。実際に見て触れたことがなくても、言葉でわかったつもりになり、言葉の権威や約束事のうえに成立していく。私たちは、ほんとうは、何一つわかっていないけれど、わかっていないと不都合だから、「標準解答」で武装して生きている。例えば、クリスティーネさんの自死も、「精神分裂症」という世間が用意している答で処理したがる。
 しかし、自分にとって本当に大事なものは簡単に標準化できず、自分なりの答を求めて、試行錯誤を重ねるしかない。世間の標準を拠り所にしてわかったつもりになるのではなく、自分の答を求めて何度でも一から始める行為じたいが、本当に大事なものに近づく道なのだろう。

 1970年代の後半から東京湾の埋め立て地「夢の島」のゴミの集積地で、一人の写真家と一人の舞踏家が壮絶な祈りの行為を繰り返していた。誰かに見てもらうとか、どこかに発表するという意識を持たずに。その写真家は、2006年3月、癌のために他界した。その後、はじめて彼の作品が明らかになった。
 私たちの近代生活のありとあらゆる時と場所で出会う物たちが、「無用」とされた後、夢の島にやってくる。
 私たちは、役に立つとか立たないという分別をごく普通に持ち、そうした分別は人類誕生の時から続いてきたと錯覚しているが、実際はそうではないということを一番わかっていないのは私たち自身だ。
 さらに言うならば、役に立つものを識別できる身分にあると勘違いしている私たちは、その意識分別が支配する現実の中で、常に自分も厳しく計られ、容赦なく区別されてしまうことを自覚できていない。
 この時代の哀しみの根は、損得、美醜、善悪などモノゴトを分断する価値観によって自分自身が刻まれ、分断されていくところにある。その一方、哀しみによって生じる心の襞こそが、美を作り出し、人の関係を深く育むことも厳粛なる事実なのだ。