文章の書けない奴は、写真が撮れない。

 風の旅人 復刊第1号は、写真も当然ながら素晴らしいものがあるが、言葉にこそ注目して欲しいと何日か前に書いた。その言葉とは、この誌面に登場する優れた言語作家達のことだけではない。写真家の言葉にも目を向けて欲しい。

 「言葉にならないことを写真にする」という古臭い言い方がある。この言い方が常套句になってしまっているので、何も考えずに写真を撮っている人は安心してしまう。「自分は文章は下手だが、写真を撮っているので、それでも構わないと」。

 風の旅人の第33号で紹介した写真家の古屋誠一が、「文章の書けない奴は、写真が撮れない」と言ったが、私もそう思うし、実際に、歴史に残る写真家であれ画家であれ、素晴らしい文章を残していることを忘れてはならない。
 当たり前のことだが、彼らは文章にできることは、写真には撮らずに、文章にする。文章にできる領域が広くて深く、そこからさらに文章にならないところに向かって意識を広げ掘り下げて行くから、写真や絵が底深いものになる。
 古屋誠一の写真と言葉に関する考えは、「写真は、一つの言葉に触発されてさらなる言葉を発見する過程において、丁度その中間辺りに不安定な状態でぶらさがっているようなもの、新しい世界の認識への橋渡しをするメディアであると思います」という言葉で明確にされている。
 人間は、言葉によって認識に到達する。しかし、その言葉によって、意識が固定化されてしまう。中途半端な写真表現者は、「言葉にならないことを写真にする」という言葉で、自分の意識を固定化してしまう。その言葉の言外のニュアンスが削ぎ落されてしまうのだ。その固定化された言葉が削ぎ落しているニュアンスに敏感な人こそが、真の意味で写真家であり画家なのだ。彼らは、言語化された一つの認識から次の認識へと精神を走らせている。その過程は、古屋の言うように、宙ぶらりんであるけれど、そのプロセスの間も、言語による次の認識に到達しようとする衝動が潜んでいる。つまり自問自答をくり返し、考え続けている。その考え続けているプロセスは文章になるものだし、自分の到達している認識を確認するために、彼らは文章にしようとする。写真で目指す領域は、常に文章化された認識の先だから、文章による確認作業は必須なのだ。
 古屋の「文章の書けない奴は写真が撮れない」という意味は、そういうことである。
 復刊第一号に掲載された写真家の文章もまた、現在社会の固定化された世界認識から次の世界認識へと踏み出している人達によって発せられているものであり、それはただ現状をなぞるような陳腐なエッセイにはなっていない。その言葉もまた、現状に甘んじている者に、言葉によって、目を開かせる力があると私は感じている。
 それに対して、風の旅人に掲載される言語作家達の言葉は、どういうものかと言うと、それは、世界を覆っている古く固定化された認識から次の段階への認識に至っている者が、現在の現場に再び舞い戻り、現在と未来を俯瞰する眼差しで、言語を紡ぎだしている。”今”から未来を探っているのではなく、未来から”今”を見て、その未来と今の橋渡しを、言語で行っているのだ。
 風の旅人に掲載される写真もまた、古屋の言葉のとおり「あたらしい世界の認識への橋渡し」であることを必須の条件として選択しているので、執筆者の言葉と響き合うことになる。
 風の旅人に掲載されている写真が凄いから、写真だけをパラパラ見る人が非常に多いらしい。(特に書店に置いてあった時は、立ち見でパラパラ見て、ペットの癒し写真を見る時と同じように、好きとか嫌いで判断されることが多かった。現状の自分に意識を固定している人が、新しい世界の認識へとアンテナを伸ばそうとしている写真を見ても、共感する筈がない)。
 写真と写真のあいだに存在する言葉を噛み締めてこそ、風の旅人を体感することだとわかってほしい。
 風の旅人 復刊第一号 →www.kazetabi.jp