テレビが殺ぎ落とす大事なもの

 今日の午前中、NHKで「星野道夫に魅せられて」という番組があった。

 星野さんの写真を断片的に見せながら彼の言葉を紹介し、そんな彼の生き方に影響を受けた何人かの人生を断片的に紹介するという内容のものだ。

 背後にロマンチックな音楽が流れ、ヒューマンタッチなナレーションがかぶる。先日見た、新興宗教のような映像試写会と類似の手法だ。

 今さらこのような陳腐な洗脳で自分の人生を変えてしまうほど単純な人は、そういないと思うが、それでも気にかかるところは多い。

 何が気にかかるのかというと、こうしたロマンチックな番組づくりは、とても善なる顔をしているが、実際には、大変大事なことを狡く殺ぎ落としていることだ。

 星野さんの場合でも、テレビ番組のなかで写真や言葉がムードある雰囲気のなかで伝説的に取り上げられるが、そうした眩しいばかりの側面だけが彼の人生ではなく、その背後に、その何倍、何十倍もの、単調で苦しく切なく孤独でやりきれない日々の重なりがあるということが無視されている。

 アラスカにいようがどこにいようが、そこに生活するということは、昨日も今日も明日も、ほとんど同じことが延々と繰り返されていくものだ。刺激に満ちた心躍る瞬間は、その単調な日々のほんのわずかな合間に、キラリと輝いているにすぎない。東京にいてそれを見逃す人は、どこにいても、それを見逃してしまう。アラスカにいけば、そういう瞬間がずっと続いているわけではない。人間というのは、その環境の空気になれるもので、アラスカにしばらくいれば、人によっては、その単調さに耐えきれなくなる。

 アラスカにかぎらず、北海道での暮らしに憧れて家を建てて住んだものの、耐えられなくなって逃げ帰ってくる人はたくさんいる。

 アラスカに住んでいましたというと、なんとなく格好がつくように思い、少し住んで、帰ってきて、それを自慢話のエピソードにして人に話す人もいる。そういう話は、日本で日々同じことを繰り返して退屈を感じている人からすれば羨ましいものであり、その瞬間、その人はヒーローになれる。

 でも、アラスカであれどこであれ、そこに住み着いて生活を始めれば、日々は単調に過ぎていくものになる。一ヶ月か二ヶ月かというならまだしも、星野さんのように20年という歳月をそこで暮らすということになると、その大半の時間は、劇的なドラマではなく、単調な生活なのだ。

 そして、本当は、その単調に繰り返される生活こそが、大事なのではないかと私は思う。単調な生活に対する慎ましさや厳粛さがその人の根になり、その根のうえに、星野さんの場合は、写真があった。「人生は人が思うほど長くない。好きなことをやることを大切にしたい」という星野さんの言葉は、その根の上にあるものであって、写真が好きだから夢を追って写真だけをやればいいという単純な意味ではないだろう。

 結婚し、子供が生まれ、アラスカに定着することを決めるというのは、まさしく自分の「人生」と「生活」を一体化させるための決断であり、ただ男の夢を追求するというロマンチックなことではないと私は思うのだ。

 だから、テレビなどで、星野さんを永遠の旅人のように偶像化していくスタンスに、私は違和感を覚える。

 永遠の旅人のようなイメージの方が格好よく、一般受けする。そのイメージだけに影響を受けて行動した人は、次の瞬間、どこにいても単調な生活が永遠に続くという現実に直面するだろう。広大無辺な無の大海をさまようことになるだろう。アラスカに生活していても、果てしなく広がるツンドラに、テレビで見るような迫真的な動物の姿など、そんなに見られるものではない。長い冬の間、あまりにも寒さが厳しくて、長い間、外に出ていられないから、ほとんどの時間、部屋の中で過ごす。しかも、ほとんどの時間が暗闇だ。だからこそ、世界の豊穣さは、家のまわりで、毎日同じような顔を見せているように感じられる小さな自然の、ほんの小さな変化の積み重ねのなかに見えてくるものではないかと私は思う。その目が、大きな自然を見る目にもつながっていくのではないかと思う。小さなものに気づかない目は、アラスカにいようがどこにいようが、世界が単調に見え、飽きてしまう。飽きてしまうと、刺激に満ちあふれて小さなことを見落とす鈍感さでも飽きさせない日本が恋しくなる。

 本当は、アラスカであれどこであれ、そのような小さな世界が大事なのだろうと私は思うけれど、そういうものは、テレビなどでは絵にならない。ドラマにもなりにくい。だから、星野さんをテレビで紹介する場合でも、おそらく毎日の生活の90%以上を占めた何もない時間のことに言及されない。その空虚のことや、葛藤やジレンマや疎外感や、それを乗り越えていくための小さな努力の積み重ねが伝えられない。

 センチメンタルな音楽にのせて、自然の素晴らしさを語り、夢の尊さが語られる。そうした見せ方をされる星野さんは、単調な生活に飽きて妄想的になっている現代日本人の心の慰みものとして、消費される。

 単調な生活のなかの厳かさ。何も特別なことが起こらないように見えても、実際はその細部に豊かさで繊細な変化がある。テレビは、そういうものをどんどん殺ぎ落としていく。そして、真摯に生きた一人の人物が蓄積した重層的な厚みから、地中深く喘ぐように伸びた根を切ってしまい、表象の花壇で囲まれたお花畑のようなところだけを見せる。

 世界は、人生は、人間は、目に見える綺麗なお花畑が主なのではない。花はたとえ枯れても、根がしっかりと伸びていれば、また新たな花は咲く。地中深く喘ぐように歪な形で伸びる根の存在にこそ、意識を向けるべきなのだろうと思う。