情報と自分の適性について

 人間に限らず、どんな生物でも、行動を促すものは情報刺激だ。敵の気配を察し、食べ物の在処を嗅ぎ分け、受けた情報を瞬時に処理して、適切な情報を筋肉に送り、行動する。

 情報感覚が無い状態で、どんな生物でも生きているとは言い難いだろう。

 今日の社会は、情報化時代などと呼ばれるが、生きて五官を通じて世界と接しているかぎり、情報に基づく営みを行っているのだから、現在だけが特別に情報化時代ということではないと思う。

 それでも、敢えて現代を「情報」と結びつけて位置づけるならば、「情報強要時代」と言うべきなのではないだろうか。

 生きていく必然性のなかで自らを主体として情報を選び取って反応していくのが生物の本来の情報との付き合い方だと思うが、現代社会の人間は、情報を自ら選び取る前に、過剰な情報を押しつけられている。

 そもそも、近代教育というものが、教育を受ける者の、その時々の内的必然性に関係なく、予め頭に覚えておくべきこととして知識情報を強要される。そうした強制的訓練によって、私たちは、情報を自ら選び取るものではなく、強制的に与えられ、それを素直に受け入れていくものだと感じるようになっていく。

 自らが生きていく上で必要な情報を選び取るのではなく、「最初に情報ありき」だから、その情報に即した内的必然性が自らのなかに欠乏しているという感覚に常に付きまとわれる。

 例えて言うならば、スポーツなどで、身体を動かしながら技を覚えていき、スランプに陥った場合、指導者や先達の知恵からヒントを得ようとして情報収集する場合は、自らの内的必然性にそった納得感を伴うだろう。しかし、身体を動かす前に先達の知恵を情報知識として覚える場合は、その情報と自らの内的必然性がつながらず、知識を得れば得るほど、それを自分の身体で確認したり納得できない不安がつきまとうのではないか。

 「最初に情報ありき」というのは、常にそうした不安定な気分が付きまとうものではないか。

 「最初に情報ありき」という世界に生きていると、常にその情報に見合った自分でなければならないという強迫観念に付きまとわれる。そうした心理構造が、今日の宣伝・広告による煽動型の消費社会を支えているのだろう。一つの情報に即した自分になろうと努力して、それを達成しそうになっても、次々と新しい情報を強要され、それに合わせなければならないという強迫観念によって、落ち着く島がない。

 さらに、そうしたメンタリティに付け込んだ偽りの情報が世に溢れているから、正しい情報を選ぶための情報も必要になる。各種の評論家・専門家が跋扈して、自分こそが正しい情報提供者であると声高に主張し、その分野の権威になろうとする。そうした情報権威付け競争によって、いっそう、情報の強要が加速する。

 マンションを買うにしても、新型の電気製品を買うにしても、最初に情報ありきだ。そして、もっとも深刻なことは、自らの人生の選択においても、そうなる傾向が強いことだ。 現在の人気職種、将来の有望企業、他人の評判等々、自分の内的必然性とは無関係のところで、自分の人生を決めようとする力が働く。しかも、そうした情報を見極める自分の身体感覚は、ほとんど育まれていないケースが多いから、情報のための情報屋が言うことに頼ってしまう。そうした情報屋は、情報屋としての信頼度アップを目指すことがビジネスの拡大にもつながるから、そうした努力を行うものの、短期的には可能でも長期的な展望など誰も持つことはできない。

 短期の積み重ねが長期になっていくが、短期ごとに他者の情報に依存していると、永遠に続くその繰り返しのなかで、自分自身のなかに情報選択の指針が育っていかない。そうして生き続けていくと、何を信用すればいかわからず、得体の知れない不安が膨れあがってくるのではないか。権威にすがる心情が強くなるのではないか。正しいとか間違っているとかどうでもよくなり、みんなと一緒だと正しいのだと安心できるのではないか。それを国家の統制力に期待するようなことになりはしないか。

 短期ごとに、たとえ判断ミスがあったとしても自分の内的必然性のようなものに耳をすましながら行動していくと、その一連の積み重ねのなかで、もしかしたら、自分なりの確かな手応えを掴めるようになるかもしれない。

 「自分の適性がわからない」という言い方は、言いかえると、情報選択の指針が自分のなかに無いという感覚なのだろう。そして、「情報がありすぎて、どれを選んだらいいかわからない」という言い方は、言いかえると、「自分の身体と呼応する情報がない」という感覚なのではないろうか。

 情報が多いか少ないかは、時代によって変わるのではなく、それを受信する側の感じ方によるところが多いように思う。

 壁のシミだって、小さな蟻だって、それに反応しなければ情報にならず、反応するところがあれば豊かな情報になる。幼い子供は、自分の周りのどんなに小さな変化にも興味深げで敏感だが、彼らが海外の情報を知らないからといって、少ない情報のなかで生きているということではない。

 現代社会は、情報が多いのではなく、自らの意図とは別に「特定の情報」を強要してくる構造があり、それがゆえに人々が不安心理に苛まれる原因があるのではないかと私は思う。

 敢えて「特定の情報」と書いたのは、壁のシミとか、使い込んだ道具の傷などの情報も、この世界に膨大に存在しているけれど、それらは、強要されず、むしろ隠されるからだ。

 ならば、強要される情報と、強要されない情報の違いを考えることで、この時代の思考や行動の癖が見えてくるのではないか。

 強要されない情報というのは、言うに言われぬ感覚で、言葉に置きかえにくいものだ。個人の身体的感覚もそうで、多くの人が普遍的に共有して右から左に流しにくい情報は、強要されない。その多くのものは、「時間の経過や蓄積」に関するものだ。

 そして、言葉になりやすく、頭に知識として詰め込みやすく、そうした共通言語によって簡単に多くの人と共有されやすいものは、情報として強要されやすい。その多くは、時間の経過に左右されず、表象的な現象として固定できるものだ。

 そうした環境に慣れてしまうと、本来、右から左に流してはならない微妙なものも、同じ固定した枠組のなかで官僚的に処理してしまう。

 その情報の固定が、情報の共有性の条件になる。さらに、その固定した情報が、人間として必要最低限度の「資格」や「免状」であるかのような錯覚すら与える。一人一人の身体的感覚や内実よりも、「資格」や「免状」を与えるための「固定した基準作り」に重きを置く時代に私たちは生きている。

 人間の優劣を語る時に、本人に直接会って確認するよりも、●●大学とか××会社に籍を置いているという公的な基準の方が、簡単でわかりやすく、各個人の、その時々のファジーな感覚より信頼に値するというのが、現代社会を生きる大勢の共通認識なのだ。国家がどうのこうのという以前に、国民の大半が、そうした思考や行動の癖を持っている。

 そうした状況であっても、強制的に与えられる「特定の固定した情報」を、斜めに見て、自らの内的必然にそった情報を、より大切にして行動し続けていくと、「自分の心身に呼応する微妙な情報」が、この世界にかなりたくさんあることがわかるのではないか。その呼応は、「時間の蓄積」に対する信頼につながっていくものではないか。

 そして、その「時間の蓄積」を信頼して生きていくことが可能だという手応えさえ掴めれば、「情報が多すぎて、どれを選べばいいかわからない」と途方に暮れることもないだろう。

 最新の新しい道具に買い換えてばかりいても、腕は上達するわけではないし、道具に自分を合わせることを強要されているようで常に居心地の悪さを感じずにはいられない。だから、使い慣れた道具を使い込んでいくように、自分自身の生を、時間をかけて使い込んでいこうという気持ちになれるのではないか。

 誰にも当てはまることが期待されるスタンダードな基準に自分を合わせる意識が強すぎると、いつまでも自分の適性はわからない。自分の適性は、就職情報誌のように外から強要される「情報」のなかではなく、自分の身体のなかの「情報」と深く関わっている。だから、今、適性がわからなくても焦らず、身体のなかに「情報」を蓄積するための何かを時間をかけて少しずつ行っていくしかないのだろうし、何をすべきか今わからなくても、また失敗しても、動くことによって生じる葛藤に晒されること以外に良い方法はないのだろうと思う。