「表現」と、魂の一汗

 文京シビックホールに、鼓童の公演を見に行く。
 時間が経った今でも、地鳴りのような太鼓の響きが身体に残っている。激しい太鼓によって、身体とか魂がマッサージされたような感じになって、心地よい脱力感がある。力強い表現は、それを見る者を鼓舞する。しかし、その“力強さ”という分別すら超えてしまうものに触れると、なぜか、心身がほぐされ、肩の力が抜けたような感覚になる。自分なりにこだわっていることや、気張っていることなど、まるで大したことがないという気になるのだ。
 

「表現」は、楽しければそれでいいという人もいる。かっこよければそれでいいという人もいるだろう。また、人を慰めるとか、癒すとか、力づけるとか、触発するとか、何かに気付かせるとか言う人もいる。それら全て間違いではないだろうが、それら人間が意識的に望んでいることの範疇を超え、ただ強く働きかけてきて、魂が一汗をかいたような状態になる次元のものがある。
 自分のなかに魂というものがあるのかどうかよくわからないが、魂らしきものが自分のなかに宿っていて、ふだんは、そいつのまわりに様々な夾雑物がまとわりついている。金銭や物質に対する欲求だけでなく、楽しくしたい、かっこよくしたい、慰めてもらいたい、癒されたい、力づけてもらいたい、触発されたい、発見したい、賢くなりたい、人に認められたい等々、ふつう誰でも抱くような心の欲求もまた、魂のまわりにまとわりついている夾雑物で、そういうものが、少しの間、取り払われるような感覚。それが魂が一汗かいたような状態だ。
 魂が一汗かくという状態が、どういう感じかわからないと、表現物を評価する際、楽しさとか、かっこよさとか、新しさとか、癒し力とか、そういうレベルのことがやりとりされる。
 それ以上のことが、どういう感覚なのか、よくわからないからなのだ。
 鼓童の、ひたぶるな太鼓の音に心身をさらしていると、魂が一汗かくという以外に言いようのない感覚になった(その時は、そのように意識していたのではなく、後からそう思うだけだ)。
 かつての祭りは、おそらく、魂に一汗かかせるために行われていたのではないか。魂の周りの夾雑物を、その瞬間、きれいに拭いとる。人間だから、理性分別によって、色々なものを抱え込んで身動きできなくなってしまうのだけど、時々、それを拭い取ることで、リセットできる。人間のように理性分別によって自らを蝕んでしまう生き物が生き続けていくためには、そうした魂の一汗が必要なのだ。
 太鼓は、そうした祭りには欠かせないものだ。魂は、誰しも自分のなかにあるのだろうけれど、理性分別による夾雑物によってわかりにくい状態にある。だから、その夾雑物を取り除きさえすれば、魂は顕れる。
 太鼓は、ダイレクトに心身の奥の方に響いてくるから、魂を揺さぶり活性化しやすいということもあるだろうが、あらゆる芸術表現も、その本質は同じなのではないか。
 自己表現か、反体制か、エンターテイメントか、癒しかといったレベルで、表現の目的が議論されることがあるが、究極および本来の目的は、魂の周りの夾雑物を取り除くことなのだと思う。
 時々、そうすることによって、人間社会の様々な歪みが、少し緩和されるのではないか。
 巷には、ありとあらゆる表現が氾濫しているが、その多くが、「表現の自由」を楯にして、上に述べた理性分別の夾雑物を強化するものであって、それが積もり積もることで、世の中はよけいに歪んでいくような気がする。そうした夾雑物の取るに足らなさを実感させてくれる表現が増えて行かない限り、表現は、世の中を変える力にならない気がする。
 表現というものを、現状のなかで楽しめればよいとみなし(つまり消費財のなかのスマートな一種にすぎない)、現状を変えるようなものではないと思っている人が多いが、そう思うのは、その程度しか表現から感じ取るものがないか、それ以外の何かを感じているのだけど、それが何なのかよくわからないからだろう。